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【ユカシカド 経営者インタビュー】 創業者のCEO美濃部/CTO寺田と「ユカシカド」9年の歩みを振り返る。現在の想い、そして未来の仲間に向けて。(前編 出会いから創業まで)

誰でも手軽に栄養改善ができる世界を目指して、様々なプロダクト・サービスで実現しているユカシカドには、様々なスキルやバックグラウンドを持つメンバーが集まっています。
今回は特別編として創業者のCEO美濃部とCTO寺田にインタビューを実施しました。前編と後編の2回に分けてお届けしていきます。

後編(創業~現在・採用に関して)はコチラ

■代表取締役 CEO/美濃部 慎也 Shinya Minobe
2006年3月関西学院大学卒業、株式会社リクルートに入社し求人媒体の営業、商品企画を担当。その後オイシックス株式会社に出向し事業戦略を担当。株式会社ごちまるへの出向を得て、2013年3月株式会社ユカシカド設立。代表取締役就任。
■取締役副社長 CTO/寺田 大輔 Daisuke Terada
2003年6月株式会社デジタルアライアンスへ入社しEC開発等を担当。2013年3月株式会社ユカシカド取締役就任。


異なる道を歩んでいた2人の出会い。そして起業に至った経緯。

ーまずはお二人の出会いから教えてください。

寺田)社会人2年目の頃に幼馴染とルームシェアをしていたんだけど、その幼馴染が美濃部と同じ関学のアメフト部だったんだよね。それで、当時まだ大学生だった美濃部が家に遊びに来たことが出会いだね。学生たちの遊び場の一つになっていたんだよ。

美濃部)ちょうど出会った頃は、アメフトを引退して留年している時で、残りの学生生活を学生でしかできないことをトコトンやりたいなと思って、就職活動中に出会った人達とイベント団体的なものを作ったタイミングだったんだよね。

ーお互いどのような印象でしたか?

寺田)出会った時は既に自分は働いていたし、美濃部は留年中の学生で体育会系カルチャーど真ん中にいた人間。生きてきた世界が全く違うから、お互い絶対に合わないと思っていたよ。

美濃部)うん。苦手なタイプだった(笑)

ーどのようなイベント活動をされていたんでしょうか?

美濃部)2004年頃のITバブル後は世の中の動きが変わるタイミングで、面白い人がたくさんいたんだよね。その人達に会うための手段として、イベント団体を作って、経営者や政治家、アーティストと対話する会をやっていたよ。

学生って言えば利害関係があまり発生しないから普段会えない人と会いやすいと思ったんだよね。

寺田)美濃部があるイベントを企画していた時、当時WEB制作会社で働いていた俺にHPを作りたいって言ってきたんだよね。よくあるのがデザイナーとかに「友達だからタダで作ってくれ」と。

最もやってはいけないことを自然とやってきたんだよ(笑)

美濃部)ははは!面白い。

寺田)はぁ?ってなるでしょ、しつこいし(笑)「遊びじゃなくて本気でやっているなら、目標の200人を集めたら制作するよ」って言ったら、本当に集めてきたんだよね。

美濃部)大学も巻き込んで実施したイベントで、複数のメディアにも掲載してもらってすごい反響があったよ。寺田が即席で作ってくれた告知サイトはパンクしてたからね。

寺田)短期間でいろいろな事をしていたよね。

美濃部)そうだね、いろいろやっていたね。イベント事って白黒はっきりつくでしょ。一つ大きな失敗もあったんだけど、大阪の淀川という大きな川で200~300人規模の壮大なBBQをやるイベントを計画したんだよね。食材も全部準備したのに、まさかの台風がきてさ(笑)全部俺の自腹で準備をしていて、集客で費用を回収する予定だったからさすがに落ち込んだんだよね。ここで寺田が男前なエピソードがあるんだけど、「人生でこんなに一気に奢る機会無いんちゃう?」って言ってくれたんだ。

それで「人生最大級に、学生最後に奢ったろ!」って気持ちに切り替えられて、食材は寺田がルームシェアをしている家に持っていって、1ヶ月くらいみんなでずっと同じものを食べていたよ(笑)

ー寺田さんの前向きな言葉に救われたんですね。

美濃部)うん、その言葉は今でもすごく残っているね。アメフトやイベントも、自分が学生時代にやってきたことって本気だったから、周りも同じように本気だと思っていたんだよね。だけど、集まってきた人の中には浅い考え方の人もいて。例えば、イベント当日に来なかったスタッフもいたり、口だけで実行できない人って多いんだなと結構へこんだこともあったよ。

でも、そこに対して実行できる常に本気な人も数人いて、そういう人たちとは一緒に何かをやるって面白いなと感じた経験だったかな。

ーこのイベントなどの経験を通して「一緒に起業したい」という想いが生まれたのですね。

寺田)当時大学生の間に起業ブームがあったんだよね。美濃部以外にも起業するわ~って人がたくさんいたんだけど、起業するって言った人に学生たちは集まる傾向があって。自分からしたらベンチャー企業で働いていたし、舐めているなぁと思ったな。でも、イベントを美濃部と一緒にやってみて、考える人間と手を動かす人間がいたら、やりたいことができるんだろうなっていうことがわかった。

美濃部)経済産業省が起業ムーブメントを作ろうとしていたんだよね。

寺田)自分の父親や美濃部の祖父も会社をやっていて、元々起業に対するイメージが身近にあったよね。何をするかはさておきとして、自分も諦めることはないし、諦めない社長がいたら、なんでもできるんだろうなっていうイメージは持っていたかな。

美濃部)その時はすぐに何かできる実力もなかったけど、大きな目標があったんだよね。そのためにはリクルートが一番起業家を創出・育成すると言われていたから、リクルートに就職したんだ。仕組みや組織の作り方とかを学んで、3年で辞めようと思っていたけど、実際は7年いたかな。「起業するなら3年後にやろう」って言ってみんな就職していったね。


起業に向けて実力をつけるため、東京・神戸でそれぞれの道へ

ー美濃部さんが就職で上京されてからもお二人は会われていたのでしょうか?

美濃部)忘年会やバーベキューで年に数回は会っていたかな。連絡もとっていたし、パソコンのことで何かあったら寺田に連絡していたよ(笑)パソコンを買ったら寺田が勝手にリモート操作ができるようにソフトを入れていて、壊れたときに対処できるようにって遠隔操作されていたもん(笑)MicrosoftのAccessで作業しているときも、寺田に相談をしてアドバイスをもらったり。システム系のことについては全部聞いていたし、当時の寺田は今以上に優しかったからな(笑)

寺田)自分は神戸にいたんだけど、美濃部はしょっちゅう関西に帰ってくるから、なんだかんだでお互いの最近の仕事のこととか、起業について話したりすることは多かったね 。

ー美濃部さんはリクルートに当初予定の3年ではなく、7年在籍されていたとのことですが、起業の延期など、何か理由があるのでしょうか?

美濃部)入社してから3年目に社内異動で企画職になって、営業はできるようになったけど、それ以外でもまだまだ学ぶことがあるから、もう少し残ろうと思うって寺田に話したんだよね。その後のオイシックスに出向するときも、自分がやりたいと思っていた事業を学べるチャンスが来たって寺田に相談して、起業を延期したんだよね。

寺田)美濃部がオイシックスに出向したあたりから、起業の話が活発化したよね。

美濃部)オイシックスに出向しているとき、エイプリルフールにリクルートの人事に絡めた壮大なドッキリを仕掛けられたことがあったんだよね。ベトナムに出向することが人事で決まったからって言われて。その直後に寺田に電話して、「俺ベトナムに出向になったんだけど、これやりがいあると思う?俺は行こうと思っている」って話したんだよね。

この頃の寺田は会社を辞めたいピークで、「はよ辞めろ」って言ってたからね。結局ベトナムへの異動はオイシックスの人たちからの盛大な愛あるドッキリだったんだけど、起業のタイミングについて真剣に考えるきっかけにもなって、いよいよ起業の準備をしようってなったんだよね。退職する1年前にこの日に退職するって決めて、半年前には会社に伝えていたかな。退職日を決めた日は寺田と神戸の漫画喫茶にいて、起業の準備を始めていたんだよね。

ここで面白いエピソードがあって、この日は寺田がすごく酔っぱらっていて、買ったばかりのMacをリュックに入れて背負っていたんだけど、酔っぱらった勢いで後ろから転んで、そのままガシャンっ(笑)

寺田)でもどうにか無事で、去年(2020年)にやっと壊れたんだよね(笑)

ー起業に向けての準備はどのようなものだったのでしょうか?

寺田)当時はまだエンジニアってワードもなかったんだけど、システム開発のスキルは自分たちの会社で何をするにも必要になるだろうと思っていたんだよね。それまでデザインやディレクションよりの仕事がメインだったけど、本格的にやったことがなかったプログラミングを習得しようと思って、勉強しながらシステム開発をしたよ。

これが俺にとっての起業に向けての準備だった。ちょうど勉強も良いところだったとき、美濃部に起業をせかされたけどね(笑)

美濃部)寺田は「辞めるんだけど、ここまではやりたいねん」って言っていたけど、最後はせかしたよね(笑)

寺田)今、昔のデータを見返しているんだけど、メーリングリストを作って、事業アイディアを出したり、自分たちの強味をあぶりだすこともしていたみたい。

美濃部)2004年にフィリピンのスラム街に行ったんだけど、当時フェアトレードが世界的な流行だったんだよ。この頃から俺はBOPビジネスをやるって言っていたんだよね。2009年にオイシックスへ出向したくらいの頃に、こういうビジネスモデル良いんじゃないっていうのが固まってきていたかな。

寺田)Skypeで定期的に遠隔ミーティングもしたよね。

美濃部)こんな会社にしたいとか、事業内容をすり合わせたよね。まずは何でもいいから事業をやろうってなった時、企画書も作ったんだけど、候補の一つがねこまんまを売るっていうビジネスモデルで(笑)「なんで、ねこまんまやねん!」って寺田は激ギレしていたよね(笑)

寺田)ハハハ!

美濃部)お酒を飲んだ後の味噌汁とご飯って良いじゃんと思ったんだよ。でもそれは辞めておこうってなったよね。

寺田)間違いなく迷走していたな。

美濃部)間違いないな。

前編1_写真見返している

ー起業前には途上国のバングラデシュに行かれていますよね。これには何か理由があるのでしょうか?

美濃部)起業の前にやろうと決めていたことがあるんだけど、一つは人生の振り返り。俺は60歳までにどうなりたいかを発表したんだよね。あとは、寺田と一緒に開発途上国に行くことだった。俺がやろうとしていること、実際に目で見ないとわからないからね。

寺田)起業するってなって、途上国の今の現状を見に行って、そのときの気持ちとかファクトを確かめに行こうってなったんだよね。JICAがやっているBOPビジネス部門向けのツアーだったんだけど、俺らだけまだ会社が無かったのに審査が通ったんだよね。最年少参加だったけど、最高に面白かった。

美濃部)最高に悲惨だったけどね、寝れない寺田に毎朝起こされて(笑)

寺田)ハハハ(笑)バングラデシュではスラム街も行ったし、富裕層のところにも行ったよね。最終的に全ての話が繋がったんだけど、美濃部は家庭環境に恵まれていたし、大学4年間はアメフトしかしてこなかったから、アメフトを引退してからすぐに行ったフィリピンとかで、社会からのインプットを受けてショックを受けていたんだと思う。

前編2_バングラディシュ(寺田さんと子供と他)

前編3_バングラディシュ美濃部さん

前編4_バングラディシュ(市場2)

美濃部)一番の気付きは、自分らの考えている栄養状態を把握することのビジネスは、必要とされるなと思ったこと。2004年にフィリピンに行った時は漠然と考えていた事が、バングラデシュでクリアーになった。

現地の人の家で話を聞くことがあったんだけど、飲み物や食べものを出してくれたんだよね。一応JICAの人からは、お腹を壊すこともあるし、出されたものは口にしない方が良いよと言われていたけど、寺田は身体弱いくせに飲み食いしていて(笑)俺も少し口にしたんだけど、全部甘いんだよね。本当に甘い。

寺田)油と糖分が凄いんだよ。

美濃部)そう。それで女の子でもお腹がポコッと出ている子がすごく多くて、気になって現地の人に聞いたら、「この子達みんな小児性糖尿病になっているんだよ」って言われて、栄養状態の可視化が確実に必要だなと感じたね。バングラデシュって結構ITリテラシーが高くて、昔の日本ってこんな風だったんじゃないかって寺田は大興奮していたよ。

寺田)日本でいうパソコン普及期を飛ばして、モバイルが発展していたんだよね。みんなインターネットを使っていたしね。

美濃部)この頃には、今のVitaNoteの構想は出来上がっていたんだよね。どうしたらできるのか目星もつけていたけど、本当に技術やサービスを確立させることができるか本当にわからなかったな。栄養という部分が重要なんだと気付いて、2003年頃からずっと今のVitaNoteの構想を考えていたんだよ。それで起業前に、バングラデシュのビジネスとかをいろいろ見たりしたんだよね。

寺田)いろいろ見たし、本当に良い経験だった。

前編5_バングラディシュ(子供iPad)

前編6_バングラディシュ(町の雰囲気)

前編7_バングラディシュ(風景)

ー出会いから11年。2013年、いよいよ起業。

後編(創業~現在・採用に関して)はコチラ

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代表取締役CEO 美濃部のnote
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取締役CTO寺田とシステム開発部メンバーによるテックブログ
https://note.com/tech_yukashikado/

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