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「チェリまほ」から考えた、セクシュアリティのこと。

クリスマスの日にふとhuluを開いたら、「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」(通称チェリまほ)のドラマがアップされていた。

このドラマ、評判はいいらしいと耳にしたことはあったけど見たことはなかった。
というのもBL(ボーイズラブ)というジャンルについて、LGBT支援団体の代表として日々性について伝える立場の自分にとって、何となく割り切れない部分があり手をつけていなかったのだ。

ただ手持ち無沙汰なクリスマスのお供にと、見始めてみたらまさかのどっぷりハマってしまい、ここ数日でドラマ3巡目に突入し、久しぶりの何かにハマる多幸感を味わっている。

BLのイメージとステレオタイプ

「ボーイズラブ」について、自分が持っていたイメージは、主に女性がメインターゲットで、男女のジェンダーを男同士にそのまま投影し、恋の障壁としての同性愛がエンタメの要素として消費される。そんなイメージだった。(語れるほどBL作品に触れたことがないので、これはあくまで個人的なイメージです)

LGBTに関するメディアの作品は年々増えていて、最近は仕事の関係で見ることもあり、その度に色々と考えさせられることも多い。
LGBTに関するエンタメの描写には、いつも社会のステレオタイプや、偏見との戦いがあって、描く側の真摯さや姿勢が問われている。
今までのメディアでは可哀想な人達として描かれたり、あるいは叶わない恋として描かれることが多かった。
それでも、多様なセクシュアリティの人達は、当たり前のようにそこに生きている人として描かれて欲しい。
「チェリまほ」についてはプロデューサーの本間かなみさんが「見て傷つく人がいない作品にしたい」と話されていたそうで、その思いを随所に感じられた。

セクシュアリティの意味

チェリまほという作品を通して、ふとセクシュアリティについて考える。
これを見た人は「ゲイの話」と思うのだろうか?

主人公の安達は、敢えてセクシュアリティの名前をつけるならパンセクシュアルが近いのかもしれない。また、このドラマには恋に興味がないと(こころの声で)話す「アセクシュアル」として描かれる同僚も登場する。
さりげないところで、自然に、そこにいる人として、いろんなセクシュアリティの人が存在している。一方で「ゲイ」という単語は、作中でも数えるほどしか登場しない。

ドラマを見ていくと、本当にそんな名前付けはどうでも良いことに気づく。
主人公が考えても見なかった同性の同僚からの好意に触れ、戸惑いながらも同僚の思いやりや愛情、暖かかさや真摯さに触れて、その想いに答えたいという気持ちから心が動き、好きという気持ちに変わっていく。
表情や、描かれ方から嘘がないことが伝わる。

LGBTについて講演をするとき、セクシュアリティは一人称で語るもの、といつも話す。
男性として男性が好きだとゲイ、女性として女性が好きだとレズビアン、、LGBTの説明をするたびに、わざわざ人の気持ちにラベリングして、線を引くことに違和感を感じる。

僕はセクシュアリティのラベルは時代の必要悪だと思っている。
まず人の意識に登るためには、名前が必要。でも、いつか名前なんて必要なくなる社会を夢見ている。
だから、葛藤しながらも日々、伝え方を考えては、もがいている。

心の声が聞こえる魔法を通して心情の変化や成長が丁寧に描かれるこの作品で、男女というジェンダーや記号ではなくて、恋をすることって相手を想うこと、人と人が心で繋がることなんだと、心にすっと入るように、しみじみと実感させられた。

とても暖かくいい作品なので、ぜひ見て欲しい。

最後に、「BL」という自分の持っているイメージに囚われることは、LGBTに対する社会の偏見やステレオタイプと同じことになってしまう。
今までの自分に反省。
食わず嫌いをせず、いろんな作品に触れていこうと思いました。

来年の4月には映画があるそうで。
この作品を通して、赤楚衛二さん、町田啓太さんのファンになりました。
しばらくワクワクしながら過ごせそうです。

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