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カフェが好きだということの動機の言語化。

今、新幹線はくたかの中でこれを書いています。長野から仙台に帰るところ。
友達が安曇野に住んでいて、会いにいきました。
自分と同じ名前の川が流れているからそこに住むことにしたらしい。

モノゴトには理由がある。

結果があるなら原因が必ずある。

死と税金ほど確かなものではないけど動機の言語化というのは興味深いし、そもそもとてもイイコト。

なぜカフェが好きなのか

僕カフェが大好きで日本でカフェ愛好家銅メダルくらいには入ってると思うんですけど、なんでこんなにカフェ好きなのかな?って。

駒沢バワリーキッチンや表参道lotusの山本宇一さんが
「装置を作りたかった」
と言っていました。

当時は、珈琲を飲むのは珈琲屋。
ケーキを買うならケーキ屋。
遊ぶ場所はファミレスやカラオケ。
お酒を飲むなら飲み屋。
(うんうん、確かにそうゆう風に決まっていましたよね。)
でもそれを、1つの場所で全て出来たらいい、そうゆう遊び場として機能する装置としてカフェを作りたかった、と。
そうゆう役割を持ったものとして作り出されていったんですよね。
もちろんオーバカナルとかありましたけどね、ブームとしてのカフェの興りはやはり20世紀末からかなというのが諸説ありつつも、定説です。 ヨーロピアンなカフェに対する、アンチカフェとして登場してきたわけです。
だから、日本のカフェブームのカフェとカフェという言葉の間には大きな溝があるわけですね。

オーバカナルもかっこういいんだなぁこれまた。

カフェは自由である

カフェの何が好きかって、あの自由度の高さです。
カフェの性格や役割を考えるとそこに行き着くのは当然の帰結ではあるけど
何をやっててもいい。いつまでも、好きなように。誰に咎められることもない。(最近はルールというか、キマリゴトを設けるカフェもありますね。勉強禁止とか、写真ダメ、とか。)
テーブルの上にお昼からワインとビールと珈琲とチーズケーキとご飯が一斉に並んでいる。
好きなことしてていいんです。
(ここは、ヨーロピアンなカフェでもカフェブームに興ったカフェも隔たりはないです。
どちらも同じように過ごせるからどちらも大好き。)人数が増えていけば色んなニーズが存在すると思うんですけど。
女の子の4人組とか。
あちらを立てればこちらが立たず、みたいなこともない。
うちのお店でもたまにいますけど、カップルが2人で、ご飯とケーキとお酒を飲みながら各々がず〜っと無言で本を読んでたりするのを見ると
「あれ、カフェってもしかして最高かな?」
って思います。

風通しのいい場所へ

自由だから風通しがいいのか、風通しがいいから自由なのか。
カフェという場所の自由度の高さが本当に好き。
(マナーやモラルは損なわないようにですよもちろん。
使い方や過ごし方は自由だけどその場所での在り方はなんでもアリではない。)

だって、通し営業で、夜はチャージもなくて、いつでも食事が出来て、いつでもお酒や珈琲が楽しめて、甘いものもホームメイド。
お店のこだわりがいちいち表現されていて、自分では出来ないような発想とか組み合わせが楽しめる。
カフェってすごい楽しくて、刺激のある場所。
ジブリの映画のように入り口と出口が全く違う。
消費するだけではなく、生産性のある場所。

カフェ、是非行ってみてください。
絶対お気に入りのお店が見つかると思います。

緊張するなぁとか意外にみなさん仰いますけど、全然そんなことない。
お店の店主さんの好きなものや人生を追体験できる。
そしてその道程に共感できるお店が見つかった時には、そんな嬉しいことはないですから。


ちなみに、冒頭の話。
その川の名前は梓川。

お店にも来てくださいね〜〜!!