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アラン諸島の記憶が作品に重なる/アランニット制作日記 1月後編

 アラン諸島に向かう途中に、印象深い出会いがあった。ゆきさんの“記憶の中のセーター”を見て、フェリーの中でいきなり話しかけてくれた女性がいたのだ。

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「このおばあちゃんはファンキーな髪型をしていて、すごく面白い人でした。私が緑のグラデーション染をしたアランニットを着ているのを見て、『そのグラデーション、いいわね』って話しかけてくれたんです。『私もお店をやってるから、あとで遊びにきて』って誘われて。そのお店にはその人が編んだアランニットのワインカバーや、タペストリーも置いてありました。『私もそういう染めをやってみたい』っていうから、ちょっと手伝いながら一緒に染めました。驚いたのは、『よし、乾かすぞ』と、庭にある草木の上へ放り投げて干していて。わたしが思ってた物づくりのルールなんて一切無く、自由で豪快。ものを作ることってこんなに自由でいいんだよなぁと思わせてくれて、すごく面白かったですね」

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ローズマリーの上へぶん投げられたニット

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染めをお手伝いした後は、おばあちゃんのお店兼自宅で一緒にお茶を。今は織物にも興味があるそうで、アイルランド本土で買ってきた小さな織り機を組み立てていた

 ゆきさんは「オモーリャ」で教えてもらったメモを頼りに、自転車で3つのアラン諸島をかけまわった。人から人へと繋がり、さまざまなニッターと出会うことができたという。ゆきさんが撮影した写真を見せてもらうと、部屋の片隅でニットを編む女性の姿があった。この厳しい自然環境の中で、何着ものニットが編まれてきたのだろう。

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少しシャイなおばあさま。若かりし頃の写真を見せてくれました(左)

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「今は目が悪いし重量のある大きなセーターは編まないの。こんな帽子を編んでるわ」と最近編んだ柔らかなニット帽を被って見せてくれたおばあさま

 アランニットのルーツを辿れば、漁師たちにたどり着く。イギリスとフランスのあいだにあるガンジー島では、漁師たちが寒さを凌ぐために、それぞれの家庭でセーターが編まれてきた。このガンジーセーターが海を超えて広まり、アラン諸島に伝わったのはおよそ100年前のことだ。そのガンジーセーターがアランニットという独自の文化を生み出すまでには、アイルランドの歴史が大きく影を落としている。

 アイルランドは、長年にわたりイングランドの統治下に置かれてきた。人びとは貧しい生活を余儀なくされ、新天地を求めてアイルランドを出た。多くの移民が目指したのは、アメリカ東海岸の港町・ボストンだった。そこにはヨーロッパ各地から移民が移り住んでいて、そこでアイルランドには存在しなかった編物の技法に触れた人たちが、それを郷里に持ち帰ったのだ。

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ご自宅にある古い写真をたくさん見せていただいた。 左:ニットを編む女性たち。右:羊を追いかける少年。アラン諸島では現在も羊や馬を放牧している姿が見られた

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家族の記録写真。白いアランニットを着用するのは男の子とされていた。女の子は白いドレスで、カトリックの聖餐式や12歳で迎える堅信礼の儀式で着られていたとされる

 港から港へ、人と物とが往来するなかで生み出されたのがアランニットだった。その成り立ちを知れば知るほど、ゆきさんが“記憶の中のセーター”でアランニットを扱っているのは必然であるように思えてくる。ゆきさんは、海の向こうで何十年前の誰かが着ていたニットに手を施し、あたらしい衣服に仕立てて、次の誰かに手渡してゆく。

 アランニットも、海の向こうから渡ってきたガンジーセーターと編物の技法を用いて、白く輝くニットとして生み出されたものだ。

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「アランニットの模様はケーブル柄以外にもハニカムやジグザグ、木の模様に見立てたものなど様々な種類があります。オリジナルで考えた模様を、母から娘へと受け継いでいくその家独自の模様も存在しているそうです。厳しくも美しい自然だけに囲まれた離島の人々の営みを支え、生活の中で繋がっていくものとして、アランニットがある。そこに魅力を感じているのだとアラン諸島に足を運んであらためて感じました」

 アラン諸島を訪れたことで、ゆきさんの中にはあたらしいアイディアが浮かんだ。そこで目にした厳しい気候の色、石の風合いや波に当たる光などを織り込めないかと生み出されたのが、玉虫染のニットだった。旅の記憶を重ねながら、“記憶の中のセーター”は作られてゆく。
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【アランニット制作日記 2月】 へ続く

words by 橋本倫史

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