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本日は、晴天なり

「すみません。神保町ってもう過ぎましたか?」

突然話しかけられて、一瞬動揺した。
ここは、渋谷方面に向かって進む半蔵門線の電車の中。
話しかけてきたのは、右隣の座席に座る女性だ。

自分が話しかけられているのだ、ということを理解するのに1、2秒ほどかかったが、私は彼女が指し示すスマホの画面に目を落とした。
乗り換えアプリが開かれており、現在地は「半蔵門」を指している。

すぐ隣で、よくないことが起きていることを察した。

渋谷方面へ進むこの列車において、半蔵門は神保町の一つ先の駅だ。
残念がる様子を見たくなくてほんの数秒だけ躊躇したが、真実を伝えた。

「過ぎてますね。さっきちょうど。」

彼女は案の定、少しだけ気落ちしたような表情を浮かべたが、気丈に言葉を返してくれた。

「そうなんですね。ありがとうございます。」

私は気まずくなることを恐れた。
そして彼女がもう片方の手に持つ、東進ブックスの『日本史一問一答』が目についた。
現在、2月の中旬。過去の記憶がフラッシュバックされる。
私は、彼女が今日これから神保町にある大学で入学試験を控える、受験生であることを悟った。
そして敢えて何も気にせず、聞いてみた。

「受験生ですか?」

「はい、今日これから」

どんぴしゃだ。

「でも、たった一駅ですから、次の半蔵門で折り返せば大丈夫ですよ。」

私は、彼女の乗り過ごしというミスが、今日この後の試験に心理的な影響を及さぬよう、ロストした時間の過小さを訴えた。

「はい、ありがとうございます!」

思いの外元気な声が返ってきて安心する自分がいた。

そして列車は、半蔵門駅について停車した。

「あの、ありがとうございました。」

「いえいえ、頑張ってくださいね。応援しています。」

最後にそんなやりとりをして、彼女を送り出した。
彼女が列車から立ち去って、その場に残った私にはニ、三思うところがあった。

まず一つには、受験懐かしいなぁということ。東進の日本史一問一答なんて、受験生当時ボロボロになる程使い倒した思い出の参考書だ。
受験生にとってのこの時期の心の動き、受験当日の空気感、全てが懐かしくて、そして少し愛おしい気持ちになった。

そして、彼女のミスにも共感していた。
私は何か考え事をしていたり、本を読んだり、勉強をしていたりすると、本当にしょっちゅう駅を乗り過ごしてしまう。
意識をしていても、いつのまにか別のことに意識がとられ、気がつくと乗り過ごしている。
あるよね、わかるわかる。という気持ちで彼女を見送った。

ただなにより私の心に残ったのは、彼女の心の強さだった。
受験生だった頃を思い出し、受験当日の心境を振り返る。
電車での乗り過ごしというトラブルは、当事者たる受験生にとってはかなり心理的な影響を与えるのではないか、と思うのだ。
それなのに彼女は、私への感謝を丁寧に述べ、最後は前向きに明るく立ち去っていった。
もちろん、内心は落ち着いてはいなかったのかもしれない。
あるいは今日の試験は滑り止めで、プレッシャーがほぼない状態だったという可能性もある。
しかし、それでも彼女へのリスペクト心は大きい。あの状況下では、前向きに対処するのが唯一の正解であり、彼女はそう行動できた、という事実は揺るがないからだ。

私の勝手な配慮など置き去りにして、彼女の意識は前を向いていた。

人生を賭けた大事な日に、いや、そんな日だからこそ本当に必要なものはなんなのか、教えてもらったような気がして呆然と立ち尽くした。いや座り尽くした。

仕事で大きな報告を前にプレッシャーを感じている自分に気がついた時、今日出会ったあの受験生のことを思い出そうではないか。

なんでもないただの日常の一コマ。
たった5分、10分の出来事。

それだけのことなのだが、ただただひたすらに彼女の強さへの賞賛と、エールをここに残させてほしい。

受験生の未来に、幸あれ。
では、また。

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