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日記 1月22日 感情と理性の戦い

ここ最近気分がすぐれない。
日記を見返して昔を思い出したり、
内面に深く潜ったり心当たりは色々とある。

だけど気分がすぐれないのは、
希死念慮と昔感じていた焦燥感が胸にあるからだ。
この感じ、随分と久しぶりな気がする。

この胸が押し潰されるような息苦しさ、体の芯から湧き出る焦燥感。
懐かしい感覚であり、昔馴染みな感覚でもある。
感覚に飲まれてしまうと中々元には戻れない。
希死念慮はずっと胸に残り続けて、いつでも顔おのぞかせている。
だけど私は付き合い方を知っている。

衝動に走りそうになる感情の心の奥底に沈めて、表に出ないように理性で縛り付けるような感じで乗り越えられる。
少しでもさざなみが立てばたちまち心は荒れる。
だから、心が抱いた感情と正反対のことを理性で考えてバランスを取る。
振り子のように右や左に揺れる心に反対の感情をぶつけて静止させる。

気分の浮き沈みについて考えてたり、双極性障害について調べたりしている。私はうつ病という診断で双極性障害ではないと思う。
だけど、心当たりもある。
今度心療内科に行ったとき、この日記と一緒に話してみようと思う。

自分は決して死ぬことはない。
死とは親しい人に訪れるものだ。
養老さんのこの話を聞いて、私は自分を殺すのではなく親しい人の心を殺すのだと思った。
親しい人から自分という存在を奪うことが死ぬことなのだと。
私は死ぬことはないけど、親しい人の中に居る私を殺すことなのだと。

この死生観は私を現実に踏みとどまらせてくれる楔だと思う。
良い考え方だと思う。
私は決して死ぬことはない。

午前中は動画を見て双極性障害について調べ、午後は自殺や後遺症に悩む人、社会問題について調べた。
ここ最近は自殺者の数が増加しているらしい。

なんでこんな生きにくいのだろうか。
コロナで閉塞感が生まれたから?
景気が悪いから?

どれも違うと思う。
暇だから死にたくなる。
暇だから、現実に飽きたから刺激が欲しくなる。

視野が狭くなり、そこでしか生きれない。
自分に価値がない、行動が全てうまくいかない。

暇とは時間的な長さではなく、精神的な弛緩のとき。
理性が緩み、心の壁に綻びが生まれ、意識が霧散するそんな一瞬。
一瞬だけど、その刹那で自分の根幹を揺るがす感情が芽生える。

それが芽吹いて花を咲かせる頃には無視できないほど深く根を張り、
取り除こうにも手遅れになる。

なんかこんな感じの暇なときが1番危ないと感じる。

日常でぼーっとテレビを見るとき。
緊張から解放されて一息つくとき。
食後に水を飲み目的もなくスマホを見てるとき。

どうやればこの芽を摘めるのだろうか。
私自身の在り方に原因があるのだろうか。

心の内側に意識が向いているとき、
なんとなくだけど時間の流れが違う気がする。

なんか掴みどころの文になってしまった。
だけど、今日も日記を書くことができた。

明日も日記を書こうかな。


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