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感受性について、あるいは歌集『エモーショナルきりん大全』感想

 上篠翔さんの歌集『エモーショナルきりん大全』を読んだ。この本は私にとって初めて購入した歌集である。そもそも中学生のころから自分は古典が大好きで、思春期ゆえの盲目さから現代短歌というものをあまり好きではなかった。ところが気づけば今は自分でも短歌もどきのようなものをつくってインターネットに投稿したりするようになっている。好きなものが増えるのはなんにせよ喜ばしいことだと思った。この本を買わなければいけない、と思った決め手は試し読みの五首の中にわたしがいる!と思ったことだ。

 短歌を短歌たらしめているものがなんなのか私にはよく分からない。私の大好きなTwitterではn575という文化があり、何気ないtweetの中にたまたま575などのリズムになったものを見つけて「n575」というリプライを送りつけ指摘する、という遊びがある(このように認識しているが実際は違うのかもしれない)。たまたま五七五や五七五七七のリズムを持った語の連なりが俳句あるいは短歌たるだろうか。おそらくそこに意図がないならそれはただの文章に過ぎない。あくまで必然的にその31音が連なり、世界を作ることが短歌が短歌であるということなのだと思う。そしてこれは私にとって現代の日本語の一番好きなところでもあるのだが、漢字仮名交じりという表記のおかげでいろいろな表現をすることができる。そうは言ってもたった三十一音で表すことができるものには限りがある。その制限の中で表現をするために、古典の授業で習ったような様々な技法が生まれてきたのだろう。また、受け取り手に様々な解釈が許されている部分があるのだと思う。

#エモきりん  でTwitter検索をし、様々な感想を読んだことにより補強された思いがある。それは短歌を読んで想起される感情やイメージというものは、受け取り手がこれまでに見てきたもの、感じたこと、摂取したもの全ての組み合わせにより無限通りに異なっているのだろうということだ。また同じ受け取り手であっても、時期が変わればまた違った受け取り方をする可能性がある。昨日の私と今日の私が同じものを見たとして、必ずしも同じことを思うとは限らないように。その点で私は他の読者と同じ感情を共有することができない。また、詠み手である上篠さんが思っていることとは全く違う物を受け取っている部分も多々あるのだろう。私が受け取ったと思い込んでいるものなど、本当はだれも差し出していないのかもしれない。とても悔しいと思う。あなたは感受性が強い子だ、と昔から母に言われて育ったけれど、全然そんなことはないと自覚しているし己の読解力不足を感じることが往々にしてある。短歌に限らず、小説や詩、漫画や映画などの作品鑑賞の能力が欲しいと願う。その一方で好きなものはただ好きでいいんじゃないだろうかとも思う。読書をすると感受性が豊かになる、と言われるが、たとえ誰かと全く同じラインナップの数千、数万冊の本を読んだとしても、私とその人は当然同じ存在にはなれやしない。私には人生の半分以上同じ家で生活し同じ学校に通い同じ本棚に育てられたきょうだいがいるのだが、その人と話していると全然違う価値観を持っており、同じ作品を読んでも全然違う感想を抱いていることがわかって面白い。違うから面白いし違うから分かりたくなる。

 私は常日頃作品と作者を完全に分離して考えたいと思っている。だから例えば大好きなアイドルの共犯者がよくわからないことをしていても彼女の詞には相変わらず泣かされるし、大好きな小説家のただのクズだとしか思えないエピソードをいくら知ったところでかわらずその人の作品を愛している。だが今回この歌集を読んでどういう感情から、どういうインプットからこれらの歌が生まれたのか知りたくなった。楽屋裏のブラックボックスをのぞいてみたいという衝動に駆られ、以前にも増してTwitterとnoteを読んでしまうようになった。これが自分にとっていいことなのか悪いことなのかわからない。

 ここまで書いて全然感想文の体をなしていないことに気が付いたため、改めて好きな歌をいくつか挙げ、感想を述べたい。連作のうちの一つを挙げることが適切かどうかは分かりません。感想を常体で書くのどうしてもしっくりこなかったため、ここから謎に敬体になります。

「能あるきりんは首を隠す んなわけねーだろ剝きだして生きていくんだ光の荒野」

 最初、「能ある鷹は爪を隠す」に対していや自分は隠したりなんかしないで生きていきますが??というようなことなのかと思いました。しかしそもそもきりんが首を隠すのってまず不可能っぽいなと気付いて、ともすれば弱点にもなりそうな首をさらけ出して生きていくしかないきりんのことがかわいそうになりました。出る杭として打たれ続けた人間として、きりんがどうかずっと光の当たるところにいられたらいいなと思いました。あとキリンじゃなくてきりんってひらがなで表記すると可愛いし動物園なんかにいるキリンじゃないみたいで面白くて好きです。この記事の見出し画像にきりんの絵を描きましたが、参考資料を眺めているうちにこんなよくわからない柄のよくわからない生物がいていいのか……??とゲシュタルト崩壊にも似た気持ちになりました。

「香水もピアスもあげられないけれどきみだけの詩であるつもりです」

 そんなの愛じゃんと思ったけど、ここでのきみって英語だったら二人称複数形なのかなって思いました。勘違いしそうになるからやめてよって返す自分が想像できます。

「アリス お茶もういいよ アリス 泣かないで 薇ほどけば春が終わるよ」

 「もういい(よ)」って現実で言われると拒絶された気がして悲しくなるけど、この「お茶もういいよ」は柔らかいもういいよだなと思いました。薇、っていう字をぜんまいって読むことを知らなくて調べたし今でもなぜぜんまいなのかよくわかっていませんがこの作品がなぜか一番好きです。アリスと言う名前から真っ先に連想される花といえば薔薇だと思います。

 好きな歌を挙げるときりがないし、引用しすぎるのもいろいろとまずい気がするのでここまでにします。たくさん好きな歌がありますが、また次に開くときには別の歌にきっと惹かれると思うのでその時が楽しみです。

 さいごに、失礼がございましたら訂正させていただきます。教えていただけますと幸いです。

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