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うまいもんはうまい、美しいもんは美しい。でも、いま私が景色に見出す美しさとは

「美しさ」に対する感情なんてそれぞれの感性や価値観によって湧き上がるとても主観的なもの。景色を前に美しいと思う感覚は本来、何を食べて美味しいと思うかと同じくらい個人的なものであるはずなので「好きなものは好き」とか「なんか好きなんだよね」で良いと思う。どんなふうにかなんて、知ったこっちゃない。うまいもんはうまい。何度食べてもうまいもんはうまい。

それでも、写真や映像の撮影のディレクションについて「どんなふうに景色を選んでいるんですか」と聞かれたり、まち歩きのワークショップなんかで「どんなふうに景色を見ているんですか」と聞かれることがある。

でも、真面目な話。 私にも忘れられない景色がある。

例えば、くじゅうから阿蘇へと続く道で出会ったススキの季節のカルデラの風景。

私が特別心惹かれるのは、ロマンチックな夜景でも、目を疑うような神秘的な絶景でも、精巧さや煌びやかさが眩しい街並みでもない。旅を続けてくるなかである程度見てしまって感動しにくくなったと言う方が近いのかもしれないけど、ある種の不感症かもしれないと思うほどのこの感覚のなかでも、「ああっ!」と、惹かれる風景がある。

例えば、天災や飢餓に見舞われた時に備えて1年分の種を蓄える蔵が並ぶ、飛騨の種蔵集落の風景。

自分の本能的感性で目を奪われた景色を前に「これってどうなってるの?」と紐解くと、その土地の地理的背景や歴史、文化が見えてくる。伝える力のある風景がくれる「へえ~!」も含めて、好きなんだと思う。

では、もっと真面目な話。いま私が景色に見出す美しさとは。

心惹かれるのは、
「その土地が与えられた自然背景の中に、その気候風土に適応して豊かに生きる人たちがいると感じられるような景色」
「目を凝らせば、その土地の人たちの営みが見えてくるような景色」

それを感じ取ろう、読み取ろうという作業も好き。そして、その土地をめぐり、またその場所に戻ってくると同じ景色がレイヤーを増して見える感覚も好き。そのレイヤーが増すほど、思い入れも増していく。

風が抜ける初夏。心がぶわっ!とした景色。

例えば、岩手県二戸市の新幹線駅から近い展望台からの景色は、私が国内外の仕事の旅のなかで見てきたなかでも圧倒的に好きな景色のひとつ。

海底火山によって隆起してできた陸地に、北上山地を源流とする馬淵川が流れて地形が成っている。そこに安比高原を源流とする安比川が合流するのが眼下に広がる位置に展望がある。

「海底火山うんちゃらを川が削って~~」という理系でもないのでただただ気後れするスケールの話を、溪谷に見える地層の露出で理解することができる。これがベースの地形的レイヤー


秋も似合う。季節の姿を見たくて戻ってきてしまう。好きな人の秋コーデ見てみたい気持ち。

そして、向かいの小さな山には、山野に自生する鈴竹を使って編む竹籠の文化がある。あっちの山では漆搔きと漆塗り、その向こうの山の高原まで車を走らせれば和牛の放牧の風景を見ることができる。気候風土に適した農林業、畜産業、工芸の営みのレイヤーが重なる。

さらに、「向こうが盛岡ということは……」と振り向いて遠くに目をやれば、足元を流れる馬淵川が太平洋に流れ出るあたりに漁業のまち八戸が見える。旅のロマンが掻き立てられる。

冬も渋く似合う。水墨画のよう。どんな姿も素敵。もはや恋。

そして何より好きなのは、展望を降りてこの景色のなかを巡ってみれば、地形に沿った集落とまちの営み、そこからそれぞれに編まれてきた地域性を感じる手仕事の技や暮らしの知恵にちゃんと出会えること。

景色が観賞用でも飾りでもない生々しく生きているレイヤーのなかを旅して体験することができる。ということに、美しさを超えてかっこよさを感じる。

私が編集の仕事と旅の仕事を通じて地域文化を伝えたいから、伝える力のある景色を美しいと思うのだと思う。
結局やっぱり景色に感じる美しさとは、それぞれの感性によって湧き上がる感覚だ。

そんな愛を込めてつくった「二戸紹介サイト」がこちら

たらくさ文化旅行舎がつくる旅の紹介はたらくさ文化旅行舎のnoteから



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