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私は、“生かされている”と語ろう

第49週 3月9日〜3月15日 の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、出会いを引き寄せるために
あなたが“生かされている”ことを語ってみな!というメッセージです。
ドシドシ語ってみましょう!

では、いってみましょう。

X‘. NEUNUNDVIERZIGSTE WOCHE (9. MÄRZ – 15. MÄRZ [1913])

49.
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1913


  暗夜に
  心の成長を思い出し
  明晰な思考が
 「私は、生かされている」と語りだす。

  そして近づきつつある出会いに向け
  内なる希望の光を点す。

 

今、暗闇の中で道に迷っています。

生きている意味とは何なのか?、なぜ生きているのだろう?などと考えてしまいます。人や社会のために働き、あたりまえに暮らしているつもりなのに、自分だけが裏切られ、ひどい目に遭っていると感じてしまうのはなぜなのでしょうか?

たとえば、学校や会社の規範や期待に合わないという時。自分では一生懸命に相手のことを理解して行動しているのにまったく評価されない、どころか逆に責められしまう。非常につらい想いをして、孤立して、さらに、自分の価値観とは合わないと感じ、そこで生きる意味をみいだせなくなってしまうといった感じでしょうか。

そこで師匠に相談をすると
「それは、感謝する気持ちが足りないからだね。」といわれました。
いやいや、「しっかりと状況をみて、働いて稼いでいるのですから、周囲への感謝の気持ちを忘れたことなどありませんよ。」

「いや、それは嘘だ!。感謝する気持ちがあったら、
なぜ生きるのかなんて考えている暇は無いはずだよ。」

「誰しもが、自分で生きているのではなく、大いなるものによって生かされているのです。そして、生かされていることに感謝できない時は、生き方や生きている場所を間違っているのかもしれません。」ということなのです。

たしかに、生きてゆく中での心の成長をふり返ると、学び方や学ぶ場によって、それぞれの人の運命が決められているように感じます。大いなるものは多様性をもち、それぞれが、それぞれに生かされる道を用意してくれているのに、それを無視して自らの生きる道を無理して歩んでしまっているのでしょう。

「感謝する心をもち、その心が生かせる道を選ぶのじゃ。」

一つひとつ小さなことを積み上げる“生かされ方”もあるかもしれません。
新天地を探す“生かされ方”もあるかもしれません。

ということなのでしょう。“生かされている”という実感をえるために。あまりにも違和感のある状況で生きなければならないに場合は“生かされている未来”をイメージし、それに向けて行動する必要があるのです。

自分の意思で生きているのではなく、
生かされていることに気づき、語れ!と

「わたしは、アートをすることによって生かされています。美を感じ、表現することに命を捧げ、今日も行動し、それに触れていただける多くの人たちに支えられ、生かされていることに感謝しています。」

たしかに、想うだけではなく、「語る」ことは重要ですね。

そして、出会う。

感謝の気持ちが芽生え、社会や人に対して、何かをしなければ!という気持ちになり、支え合って生きてゆくためには「出会い」が重要なのでしょう。

人でも、事でも、物でも、出会いは大いなるものによって準備されているのでしょうね。「私は、生かされている」と語りだすと出会いに向けて、さまざまな流れがそれに向けて動き出すのでしょう。

ユングが提唱した「シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)」が発動されるのでしょう。ユングが自己というものを何か具体的に言い表すように求められた際、「ここにおられるすべての人、皆さんが、私の自己です。」と答えたそうです。

ユングの提唱する「自己」とは、他者をも含めた心の全体であると考えられます。それだけでなく、すべてを含んだ大いなるものである。ともいえそうですね。

これは、無意識領域のつながりから、他者とのつながり。まだ、ここにない、出会い。(すごいコピーですね…)への希望が内在しているのでしょう。

つまり、「語る」ことですでに出会っているということ。なにか壮大な話のようにも感じてしまいますが、あなたも過去をふり返れば、そのような経験をしてきているのではないでしょか?

「私は、多くの出会いによって
アートを続け“生かされて”いるのです。」

読まれているあなたも、きっと、すでに出会いの連鎖の中にいるではないでしょうか?それは、目にみえる出会いだけではなく、感じたり考えたりする全ての瞬間が、新たな出会いなのです。

そうしたさまざまな出会いから、あなたの表現が生まれてゆくのでしょう。


2024年3月草むら


春との出会い。

「だいぶ髪が伸びましたねー」という感覚で、二三日観ないだけで突然植物が成長したように感じました。
そのうちに芽が出てきて花をいっぱい咲かせるのでしょうが、ワラワラとした生命感にビックリさせられます。

季節の移り変わりで、今の草むらがどのように変わってゆくのかを観察するのは楽しいものです。

次から次へと同じ場所で、選手交代をするかのごとく、違う植物が出てきては咲き、枯れて。次の植物がまた出てきては咲き、枯れて。を毎年毎年、繰り返す循環って何?と思わされます。

学校や会社も、人々が成長し、去って行き。また次に、同じ場所で違う人々が成長し、去って行く。を繰り返しています。

植物たちは毎年同じように繰り返えせるのに、人間の方は、だいぶ姿形が変わってしまっているように感じるのは、表面的な部分を観てしまっているからなのかもしれませんね。

根本的な“生かされ方”の視点をもって観れば、人間も植物のように純粋な「成長」を感じた“生かされ方”をするのが幸せなのかもしれませんね。

シュタイナーさんなどの哲学がもっと研究され、心の成長を軸にした社会が築かれてゆくことを願います。



シュタイナーさん
ありがとう

では、また


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