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6月19日の桜桃忌に、三鷹で「ひとり太宰ツアー」

6月19日は、太宰治の誕生日でもあり、玉川上水で入水した彼と山崎富栄さんの遺体が発見された日。

この日は太宰の最晩年の短編「桜桃」にちなんで「桜桃忌」と名付けられました。

拙著「井の頭公園の片隅で〜大家さんとわたし〜」

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でも書きましたが、わたしの大家さんは1948年(昭和23年)の6月19日、入水した太宰発見の知らせを聞いたお母さんにおんぶされて、玉川上水を見に行ったそうです。

(「僕は赤ん坊だったから、覚えてないけど」とのことでしたが)

そんな桜桃忌、三鷹市美術ギャラリーの太宰治展示室「三鷹の此の小さい家」(三鷹にあった太宰の自宅を再現したもので、その中に太宰関連の展示があります)からスタートして、「ひとり太宰ツアー」。

「三鷹の此の小さい家」の展示の一部は3ヶ月ごとくらいに変わります。

今回は太宰が心酔していた芥川龍之介の書や20代の太宰が「芥川賞を自分にください」と芥川賞選考委員だった作家の佐藤春夫宛に懇願するために書いた長さ約4メートルの巻紙の毛筆の手紙などもありました。

桜桃忌のためか見学者も多かったのですが、太宰のお墓のある禅林寺にも老若男女、海外の方など、次々とお参りの方が見えていました。

「桜桃忌」にちなんでなのか、墓前にはさくらんぼもたくさん供えられていました。

(でも、墓石の太宰の名前のくぼみにまでさくらんぼが。
それはさすがに悪ふざけが過ぎるのでは…‥)

なお、太宰のお墓と津島家のお墓の斜め向かいには森鴎外と森家のお墓があります。 

生前、鷗外を尊敬していた太宰は「花吹雪」という作品にこんな風に書いていました。

「この寺(注:禅林寺)の裏には、森鴎外の墓がある。
(中略)
ここの墓地は清潔で、鷗外の文章の片鱗がある。

私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」

そのため、太宰も禅林寺に埋葬されることになったのです。

なお、太宰と共に入水した山崎富栄さんのことは、松本侑子さんの「恋の蛍 山崎富栄と太宰治」に非常に詳しく書かれています。
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(この本を読むと富栄さんのことがあまりに痛ましく、とても呼び捨てにはできなくなりました) 

読んでいると、松本さんの徹底した取材に基づいた文章が、まるでドキュメンタリーのように感じられます。

富栄さんは「お茶ノ水美容洋裁学校」の校長の娘として、茶道・華道も学び、当時の最先端の美容・着付けの技術を身につけました。

父は娘を一流の美容師に育て上がるため、心理学、英語、フランス語などを学ばせ、日本画の展覧会や歌舞伎座・オペラなどにも触れさせます。

また、第二次世界大戦前に、彼の学校ではパーマネント機を買い入れ、富栄さんもその使い方を学びます。

そして、技術を身につけた彼女は映画俳優の整髪や着付けなども手際よく行う、人気の美容師になっていくのです。

新婚の夫を戦争で亡くした富栄さんは戦後は三鷹に移りすみ、戦後第一回の美容師競技会では三多摩地区の代表として出場していたとか。

そんな彼女がそのまま生きて美容師を続けていたら、関東大震災で全焼した美容学校を再興し美容・着付けの第一人者ともなっていたかもしれません。

富栄さんと共に学んだ山崎伊久江さんは1959年の今の上皇さまと上皇后さまのご成婚の日に宮中に上がり、助手として妃殿下の「十二単衣紋の御用」をつとめました。

もし富栄さんも美容師としてのキャリアを築き続けていたら、一緒に皇居でおつとめをしていたかもしれないのです。

太宰との出会いから死まで、そして死後のひどい誹謗中傷を読むと、富栄さんご本人もご家族もあまりに痛ましく、やるせない思いがしました。

(詳細は、ぜひ松本侑子さんの
「恋の蛍 山崎富栄と太宰治」(光文社)
をお読みください。)

お墓参りの後、太宰がよく利用していた「伊勢元酒店跡」にある「太宰治文学サロン」やその近くの富栄さんが下宿していた場所、太宰が通いつめていた小料理屋・千種のあった場所などにも立ち寄り、「太宰ツアー」を終えました。

なお、このツアーの最初に訪れた三鷹市美術ギャラリーの収蔵品展では、大好きな画家・高島野十郎の作品を数点、見ることができました。

そのうちの1点「けし」は数年前の「没後40周年高島野十郎展」で出会っていた作品。

自分の住む街で彼の絵を見られることをとても幸せに感じました。

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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