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チャイルド・ハッサムの椅子

 なにをながめていたのだろうか。

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 ベトナムが旧正月に入り、僕の仕事も長期休みとなったため、日本に一時帰国をした。帰ってきたからには、行きたいところ、会いたいひとたちがいた。
 行きたいところとは、美術館だ。
 絵の情景に漠然と思いをはせることも好きだが、「ぼんやりとした心地で歩いている空間にさまざまな絵が飾られている」という美術館の存在そのものも好きだ。
 ぼんやりとした心地でいられる空間は、僕にとって、絵と同等、ときには絵よりも価値を持つ。

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 美術館というのは、とても退屈な場所だと思う。スマホは使えるが、おしゃべりや飲食が禁止されて、展示された絵画の鑑賞のみを推奨される。そして絵画には、漫画や映画のように心に波をひっきりになしに立たせ続けるような力はないと、僕は考えている。
 退屈な場所ゆえ、自分の心がしんと鎮まる。そうなると、次におぼろとなり、無作為な過去とか現在とか未来だけが心となる。
 同時に絵画もながめる。僕の目を通った絵の風景が、ときおり、おぼろな心の一部とともに振動する。この感覚も好きだ。

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 美術館のギャラリーにすえつけられた椅子に座ることも大好きだ。腰を落ちつけると、心はいよいよ際限なくおぼろげとなる。
 平日の昼すぎだというのに、ずいぶんと多くのお客さんがいるのだなと目の前を通りすぎる老若男女をながめる。なるほど、そのなかでも女性が多いのかと気がついた。
 みんな、それぞれの歩く速さで絵を鑑賞しつつ通りすぎていく。服装も、顔だってさまざまだ。
 その無秩序ともいえる光景は、そのときの自身の内側に広がる様相とも似ていて、ついつい僕はながめてしまう。
 長いこと、その椅子から動けないでいた。

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 椅子から立ちあがり、目の前の壁にかかげられていた絵画に近寄る。絵のタイトルは忘れてしまったが、描いた者の名はチャイルド・ハッサムと記されていた。
 部屋のなか、ひとりの女性が大きな窓の近くで座っている。窓には薄いカーテンが引かれているが、その外には大きな空とビルが広がっている。
 僕は釘づけになってしまった。抽象画と呼ばれるその絵は、たしかに呼び名のとおりに色合いや輪郭がおぼろげだ。女性の顔もちゃんとえがかれていない。
 もしも僕の胸のうちに去来した風景がキャンバスに落とし込めるのならば、目の前の絵画と同じタッチでえがかれてほしいなと願った。

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 無秩序で曖昧糢糊な時間も、僕にとっては贅沢である。
 来年、ベトナムの旧正月で帰国できることがあれば、また美術館を訪れようと決意した。

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