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ひとにやさしく、お願いだから

 似ているけれどけっこうちがう。

◆ ◆ ◆
「怒る」と「叱る」のちがいをひしひしと感じる毎日を送る。
 僕のベトナム人女上司は、論理的な内容を感情的な手段で伝える。内容はなにもまちがえていないが、口調をあらげながら心をえぐるようなことばをもちいるさまを目の前にすると、僕はなすすべなく相づちを打つほかない。
 僕は彼女を心のうちで「皮肉屋」と呼んでいるが、それは激昂したときのものいいが間接的で鋭いためだ。
 どんなに学びのあることばでも、あらぶった感情に包まれてしまえばそれは「怒る」に含まれて、そこから本人の感情を差し引けたときに「叱る」となるのだろうと僕は思う。

◆ ◆ ◆
 子ども時代をふり返ると、学校の先生たちはよく怒っていたなと気がつく。それも当然なのだろう。なにをしでかすかわからない小さい生きものたちをたくさん相手にしなければいけないのだ。神経はすりへりとがっていき、口にすることばも同じような鋭さを持っていくのだ。
 相手がどう考えているかわからないけれど、自分のやり方や言ったことにしっかりのっとってほしいという気持ちが強いひとほど、怒りやすいということなのだろうか。

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 現在、自分がすぐれていると感じたことはない。
 怒られる続けると、ひとの心はゆっくりとすり減っていく。細っていく心を前に、防衛本能としてなんとか現状を理解しようとする。理解して改善しようとする。だけれど、それもうまくいかないでまた怒られていく。
 他者と仕事をするこの世界は、なんと難しいことか。

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