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「小学生最後の夏休み、俺はママになる」第5話(全7話)

 次の日の朝、俺は目を覚ますと、真っ先に居間に行った。

「母さん!真里姉ちゃんは?」
母さんは首を横に振った。

「帰ってこなかったわ。連絡もないし。何かあったんじゃないかしら。」
母さんはそう言って時計を見た。

「今日は少し仕事遅れて行く。朝ごはんにするね。」

 台所のカウンターの上には、消毒器に入った哺乳瓶とミルクの缶があって、振り返ると、客間から移したらしいベビー布団の上に赤ちゃんが寝ていた。

 ……母さん、夜中もきっとここで赤ちゃんの世話をしていたんだろう、ソファの上に母さんの枕と、夏用のタオルケットが置いてあった。仕事があるのに、ゆっくり寝ていないんだな……。

「あ、悟。おはよう。」
姉ちゃんが居間に顔を出した。

「おはよう。……真里姉ちゃん、帰らなかったみたいだね。」

「うん……。」

姉ちゃんが赤ちゃんの様子を見た。

「さ、食べよう!お腹すいちゃった!」
母さんが台所から俺達に言った。俺と姉ちゃんは、テーブルの上に朝ごはんを準備するのを手伝った。

 九時頃になって、電話が鳴った。母さんが出た。

「もしもし。……うん……うん……そう。こっちにも連絡ないわ。警察に連絡した方がいいかも知れないわね。」

 俺と姉ちゃんは顔を見合わせた。

「うん。わかった。また連絡して。うん。……じゃあね。」
母さんは受話器を置いた。

 電話の相手は伯父さん。母さんから聞いた内容は。

 朝になってから家政婦さんに連絡して、恵美さんの電話番号を調べてもらい、恵美さん本人と話すことができたということ。恵美さんは、ずっと大学に来ていなかった真里姉ちゃんの彼氏が、久しぶりに授業に出席しているのを見つけて、真里姉ちゃんに電話したらしい。

 恵美さんは、真里姉ちゃんと彼氏の間のことをよく知っている仲のよい友達で、真里姉ちゃんが彼氏とまだ話し合いたがっていることをわかっていた。

 真里姉ちゃんは、俺達とデパートで別れた後この家に帰って赤ちゃんを寝かしつけ、急いで大学に行って恵美さんと会って、彼氏を見つけ、二人だけで話し合うことにしたそうだ。恵美さんはその後、真里姉ちゃんと連絡が取れていないらしい。

 伯父さんは、とりあえず真里姉ちゃんの行き先がわかったので、警察に届けるのはもう少し後にして、真里姉ちゃんからの連絡を待ちたいそうだ。恵美さんも、真里姉ちゃんを探してくれるという。伯父さんも、なんとか仕事の都合をつけ次第動くとのこと。 

「まだ心配だけど、行き先がわかっただけよかったわ。」
母さんがそう言った後、赤ちゃんが泣き出した。

「あらあら涼太君、ママの話がわかったのかな?」
母さんは手際よくミルクを作り、おむつを替えると、赤ちゃんを抱いて哺乳瓶をくわえさせた。そして、しばらく抱いたままあやした。

「涼太君。おばちゃんは仕事に行きますからね。お姉ちゃんやお兄ちゃんといい子で待っててね。」

「母さん、もう行くの?」

「うん、もうすぐランチタイムだもの、行かないと。」

「そうだね。」
俺はちょっと不安だった。

「やす子に事情話しておくわ。店番、ご主人に任せられる時には、うちに来てもらえないか頼んでみる。」
やす子おばさんが来てくれたら心強い!

「うん、それいいね。」

「ただやす子も仕事だからあんまり甘えられないけどね。」

 それを聞くと、姉ちゃんが立ち上がった。
「私、がんばる!」

 母さんは姉ちゃんを見て微笑むと、
「ありがとう、加奈子。ごめんね、二人に大変なことさせちゃって。」

「母さんが謝ることないよ。……ただ、真里姉ちゃんも精神的にいっぱいいっぱいだったんじゃないかなって、私、思うんだ。」

 そうだね、姉ちゃん。

 母さんはやす子おばさんに電話をすると、出かける支度を始めた。

 赤ちゃんは、じーっと天井を見ながら、時々口をモグモグさせている。泣かないから、機嫌はいいのかもしれない。

「こうして見てるとかわいいね!」
姉ちゃんが笑いながらそばに座って赤ちゃんを見ている。俺にはまだ、なんだか異世界の住人のように見えた。不思議な存在。

「じゃあ、行って来るね!早めに帰るわ。」
母さんが言って玄関に向かった。

「うん、気をつけて。」
姉ちゃんが玄関に送りに出た時、チャイムが鳴った。

 真里姉ちゃん?

「こんにちは!」
残念(?)ながらシゲ兄ちゃんだった。

「おばさんからの電話の内容をおふくろに聞いて、急いで来ました。おふくろに、あんたでも多少は手伝えるでしょうって言われて。」
シゲ兄ちゃんがシシッと笑って鼻の頭をかいた。

「うん、助かるわ!うちの子供たちだけじゃ赤ちゃんの世話はやっぱり心配だもの。シゲちゃんはいちおう大人だからね!万が一のときの対応はお願いするわ。」

 母さんにそう言われて、シゲ兄ちゃんはちょっとたじろいだけど、
「が、がんばります!」
と言った。

 「加奈ちゃん、今日は居間で勉強しよう。」
シゲ兄ちゃんがノートを出しながら言った。

「うん、そうする。」
姉ちゃんは二階に上がって行った。勉強道具を部屋から持ってくるんだろう。

 そこへ電話が鳴った。俺が出た。

「もしもし。」

「……悟君?」

「真里姉ちゃん!どこにいるの?」
間違いなく真里姉ちゃんの声だ。

 シゲ兄ちゃんが電話のそばに寄ってきた。

「ごめんなさい、帰らなくて……。涼太はどうしてる?」

「大丈夫だよ、昨夜は母さんが居間で面倒見てた。ちょっと前までいたけど、もう仕事にいったよ。今はシゲ兄ちゃんと姉ちゃんと俺だけ。」

「そう……。本当にごめんなさい。みなさんに迷惑かけてるね。」

「伯父さんや恵美さんも心配してるし、早く帰ってきてよ。」

 真里姉ちゃんはしばらく何も言わなかった。そして。

「本当に本当にごめんなさい。私にもう少し時間をちょうだい。彼ともっと話し合いたいの。勝手だってわかってるけど、今を逃したら、また会えなくなると思うの。」

 最後の方は涙声だった。デパートの屋上で見た真里姉ちゃんの姿がまた頭に浮かんだ。

「ごめんなさい、涼太を、どうかお願いします。」

「あ、真里姉ちゃん?」
電話が切れた。

 シゲ兄ちゃんが俺の顔を見る。
「真里さん、なんだって?」

 姉ちゃんも降りてきた。
「今の電話、真里姉ちゃんだったの?」

 俺は電話の内容を二人に説明した。

「真里姉ちゃんの気持ちもわかる気がするけど……じゃあいつ帰ってくるの?」
姉ちゃんがそう言って、赤ちゃんの方を見た。シゲ兄ちゃんも赤ちゃんを見た。

「涼太君を置いたままっていうのがなあ。まあ、赤ちゃん連れじゃあ話し合いにならないのはわかるけど、子守できるひとがいないところに置いて行かれても困るよな。」
シゲ兄ちゃんがため息をついた。

「真里さんも、気持ちに余裕がなくなってるんだろうな。だからあんな所で……」
シゲ兄ちゃんがあわてて咳払いをした。

「まあとにかく、今日はがんばろうぜ!三人で協力すれば、どうにかなるだろう!」
姉ちゃんはしばらくシゲ兄ちゃんの顔を見て、何か考えてるみたいだったけど、
「よし、涼太君の機嫌のいいうちに勉強しよう!明日は模擬試験だからね!」
と言って、テーブルに問題集を広げた。




 姉ちゃんとシゲ兄ちゃんが勉強している間、俺もたまにはやるかと思って、夏休みの宿題を持ってきて広げた。なにからやったらいいかと考えていたらため息が出た。

 慶太と正はやってるのかなあ?まあ計算ドリルから始めるか、と十問くらい解いた頃、赤ちゃんが泣き出した。

 まずはおむつ。そしてミルク。俺は姉ちゃんと手分けして、昨日のようにやっていったけど、なんだか昨日よりは手際よくやれた気がした。

 シゲ兄ちゃんは、赤ちゃんをあやしながら俺達のやるのを、「ほお。」とか「なるほど。」とか言いつつ感心したように見ていた。

 そこまではよかったんだ。
 ミルクを飲んだ後、赤ちゃんはずうっと泣き続けた。

「なんで泣くんだろう?」

「お尻もきれいだし、ミルクも飲んだのに。ちゃんとげっぷも出たのよ。」

「暑いとか寒いとか?」

「汗はかいてないけどなあ。やっぱりお母さんがいないからかな?」

「うん、それはあるかも。」

「でもこれだけ泣くって、どこか痛いのかもよ?」

「ええっ!じゃあ病院?」

 三人でああじゃないかこうじゃないかと言い合いながら、交替で赤ちゃんを抱きながらあやしてみたけど、どんなにいろいろ試しても、ちっとも泣き止まないんだ。

 そのうち、シゲ兄ちゃんが言った。
「加奈ちゃんは明日大事な模擬試験だから、勉強続けて。俺と悟で涼太君みるからさ。な、悟?」

シゲ兄ちゃんに言われて、
「え?ああ、うん。」
と俺は言った。

 そして、
「じゃあ、シゲ兄ちゃんが答え合わせしてくれる間は、私と悟で見るわ!」
と姉ちゃんは言って、居間のテーブルに戻った。

 俺はシゲ兄ちゃんと、ああでもないこうでもないといろいろ試しながらあやした。でも泣き止まない。

 しばらくして、
「終わった!シゲ兄ちゃん、見てくれる?」
と姉ちゃんが立ち上がって、俺の代わりに赤ちゃんをあやしだした。

 でも。

 何がいけないのか、赤ちゃんは泣き止まない。

「加奈ちゃん、答え合わせできたよ。解説したいから、ちょっと来てくれる?」
シゲ兄ちゃんに言われて、姉ちゃんは赤ちゃんを俺に抱かせると、またテーブルへ。こんどは俺一人であやす。……はあ、泣き止んでくれよ……。 

 赤ちゃんはその後も、ちょっと泣き止んだように見えてもまた泣き出して、なかなか機嫌がよくならない。まいったな、何もできないよ。

 シゲ兄ちゃんと姉ちゃんも、手があくとやってきて、赤ちゃんをあやしたけど、やっぱりだめだった。


 そうこうしているうち、玄関のチャイムが鳴った。

「やす子です!こんにちはぁ!」
俺達は顔を見合わせた。

「やったぁ!救世主だ!」
俺は叫ぶと、赤ちゃんを抱いたまま、玄関を開けに行った。

「やす子おばさん!いらっしゃい!」
やす子おばさんは、俺の勢いにびっくりした顔をしたけど、すぐ笑顔になった。

「あらあら、小さなママね!はじめまして、涼太君、やす子おばさんですよ。」

「大変だったんだ!全然泣き止まなくて!」

 やす子おばさんは笑いながら、
「お疲れ様。まあまずはおばさんを入れてくれるとうれしいんだけど?」
と言った。

「ああ、ごめん!入って入って!」
俺はやす子おばさんを居間に通した。

「赤ちゃんはねえ、泣くのが仕事だってよく言われるのよ。」
やす子おばさんは笑いながら言った。

「おむつもきれいで、お腹もいっぱいで、体のどこにも異常がなくても、泣くときは泣くのよ。いくらあやしたって泣き続けることもあるのよ。」
俺は困った。

「なんで泣くの?」

やす子おばさんはうーんと考えて、
「そうねえ、眠いのに眠れなくて泣いてるときもあるし、暑くて泣いたり、どこかが痛かったりかゆかったりすることもあるだろうし。でもいくら世話する側ががんばっても、泣かれることはよくあるのよね。」

姉ちゃんも困った顔をした。
「それじゃあどうすればいいの?」

やす子おばさんは俺から赤ちゃんを受け取ると、おむつをチェックした。
「思い当たることをいろいろ確かめて、なにも原因がわからなかったら、もう、きっと赤ちゃんは泣きたいんだ、泣きたいなら泣けばいいよ、つきあってあげる、くらいに思って相手するしかないかもね。」
そう言って、赤ちゃんの服をきれいに直すと、そっと縦抱きをして背中をやさしくなでた。

「でももし、いつもと泣き方が違うとか、ちょっとおかしいと思ったら病院ね。」
そして、シゲ兄ちゃんを見てクスッと笑うと、
「シゲは、夜中の二時から明け方の五時まで、ずうっと泣き続けたことがあったよ。」
と言った。

「ええっ?そんなに?おふくろどうしてたんだよ?」
シゲ兄ちゃんが驚いて聞いた。

「しかたないから、ずっと抱きながら家の中を歩き回って、話しかけたり子守唄歌ったりしてたのよ。」

俺達三人は、そろって、
「へえ……。」
と言ってやす子おばさんの微笑む顔を見つめた。

 やす子おばさんはそのまま、赤ちゃんを抱きながらトントンと背中をやさしくたたいたり、ゆっくり話しかけたり、廊下を歩いてみたりした。するとそのうち、赤ちゃんは静かになって、やがて寝てしまった。

「さすがねえ、やす子おばさん。」
姉ちゃんがため息をついた。本当に……。

「さ、みんな!お昼ごはん食べようよ!うちの店で炊いたお赤飯持ってきたの。」
やす子おばさんが笑顔で言った。

「やったぁ!いただきます!」
俺がはしゃぐと、
「テーブル片付けます!」
と姉ちゃんが言った。

 やす子おばさんがいてくれた間は平和に過ごせた。

 赤ちゃんは、この人はベテランママだとわかるのか、やす子おばさんだと安心するみたいだった。でもやす子おばさんにもお店の仕事がある。

「ごめんね、おばさん店に戻らなきゃ。もし何かあったら電話ちょうだいね。シゲ、あんたしっかりするんだよ!」

シゲ兄ちゃんはまいったな、という顔で、
「わかったよ、がんばります。」
と答えた。

 やす子おばさんが帰った後、また三人でなんとか面倒を見た。

 げっぷの拍子にミルクを吐いてしまったり、おむつの横からうんちがもれてたり、バタバタおろおろしていた。

「ふう、勉強どころじゃないな。模擬試験前なのに。」
シゲ兄ちゃんが言った。

 でも姉ちゃんはにやっと笑って言った。
「私は一夜漬け派じゃないからね。今までの努力の成果を見せるわ!」

「おおっ!頼もしい!」
シゲ兄ちゃんがオーバーに驚いてみせた。そしてふふんと笑うと、
「ま、先生がいいからね!」
と言って腰に手を当てた。

 姉ちゃんは笑って、
「よく言うよ。」
と言ったけど、ちょっとしてから照れ臭そうに、
「まあ……感謝してます。」
とシゲ兄ちゃんをちょっと上目遣いに見た。

「よろしい!」
シゲ兄ちゃんは、わははと笑った。




 そして母さんが帰ってきた。

「ただいま。どうだった?大丈夫だった?真里ちゃんから連絡は?」

姉ちゃんが、母さんのいない間のことを話した。

「そう……。いつごろ帰ってくるのかしら。涼太君がかわいそうね……。」
母さんはそう言って赤ちゃんを抱き上げると、
「涼太君。あなたのママは、今がんばってパパと話し合いしてるからね。寂しいかもしれないけど、もう少し待ってようね。」
と言って頭をなでた。

 シゲ兄ちゃんは、夕飯を一緒に食べてから帰った。帰り際、
「すみません、俺、明日は就職セミナーがあって来れないんです。」
と言った。

「それは大事なことよ!今日は早く寝て、がんばってね!」
と母さんが言った。

 シゲ兄ちゃんは姉ちゃんを見ると、
「俺の会場、途中まで加奈ちゃんの模擬試験会場と方向一緒だし、時間もあまり変わらないから、朝一緒に行こうか?」
と言った。

 姉ちゃんは、えっ?という顔をしたけど、あわてて天井の方を見ながら、
「ええっと、うん、お願いしようかな。初めて行く会場だし。」
と言った。

「おう、じゃあ明日迎えに来るよ。受験票、忘れるなよ!」
シゲ兄ちゃんは笑って帰って行った。姉ちゃんはちょっとぼーっとしていた。

「姉ちゃん、よかったね。」
ニヤニヤしながら言う俺を見て、姉ちゃんは、
「家近いんだし、方向一緒なんだからいいじゃない。」
と俺と視線を合わせずに言った。 




 お風呂に入って、夜。

「さ、もう加奈子と悟は二階に行って寝なさい。」
と母さんが言った。

 でも、俺、考えたんだ。

 姉ちゃんは明日模擬試験。母さんは仕事。しかも土曜だからレストランはいつもより混むと思う。だから二人はしっかり寝なきゃ。だったら、今夜の赤ちゃんの世話は、俺がするのが一番いいんじゃないかって。

「母さん。俺、今夜は居間で寝て、赤ちゃんの世話するよ。」

母さんはびっくりした顔をした。

「悟が?一人で?」

「うん、だって母さん明日、仕事だろ?土曜だからいつもより忙しいと思うんだ。」

母さんは優しく笑って、
「ありがとう、悟。でも母さんは大丈夫よ。心配しないで寝なさい。」

でも俺はやっぱり、俺がした方がいいと思ったんだ。

「でも俺がやるよ。どうしようもなくなったら、母さんを呼びに行くから、母さんは母さんの部屋で休んで。」

母さんはしばらく考えていたけど、
「そう?じゃあお願いしてみようかな。でも何かあったらすぐ来てね。」
と言った。

「うん、わかった。」

姉ちゃんは、へえ、という顔をして俺を見て、にっと笑いながら、
「おやすみ!」
と言って二階に上がっていった。母さんも同じように部屋に行った。

 よし!がんばるぞ!

 おむつとミルクの用意をした。着替えとガーゼとタオルも。
 さ、赤ちゃんが寝てる間に、俺も一休み。




 泣き声で目が覚めた。

 時計を見ると、一時だ。

「よし、赤ちゃん。おむつ替えような。」

 俺は泣いている赤ちゃんの肌着をめくっておむつを替えた。ぬれたおむつを捨てて、よく手を洗ってミルクを作る。温度を確認して、よし、いいかな。

 俺は赤ちゃんを抱き上げると、ミルクを飲ませた。うぐうぐとあひるのような口をして飲んでいる。ふと、赤ちゃんの手が哺乳瓶を持つ俺の手に重なる。 

 やわらかくてあたたかい、小さな小さな手。

 どのくらい見えているのかわからないけど、赤ちゃんは俺の顔を見た。俺はちょっと、どんな顔をしたらいいかわからなくなってあわてた。

 そのまま赤ちゃんはミルクを飲み干した。俺は縦抱きにして背中をさすった。

 あれ?なかなかげっぷが出ないなあ。トントンたたいてみたけど出ない。

 しかたなく、そのままさすりながら抱いていたら寝てしまった。おれはゆっくり赤ちゃんを布団に寝かせて、急いで哺乳瓶を洗い、煮沸消毒器に入れてレンジした。

 次のおむつをそろえて、赤ちゃんが寝ているのを確認してから、俺もまた寝た。




 え?また泣いてる。たいして時間たってないような気がするんだけど……。

 時計を見ると、二時前。さっき、ミルクをあげて寝てから三十分くらいしかたってない。どうしたんだろう。

 俺は赤ちゃんの顔をのぞいた。真っ赤な顔で泣いている。

 おむつを見てみたけど、大丈夫そうだ。ちょっと抱いてみよう。ゆっくり抱き上げたけど、泣き続けている。なんだろうな……。俺は横抱きにしていたのを、縦抱きにしてみた。その拍子に、赤ちゃんがすごく大きなげっぷをした。

 ああ、さっき出なかったから、気持ち悪くて泣いたのかも!

 と思ったら、げっぷとともにミルクをはいている。あちゃあ、これはひどい!着替えさせないと。ついでに、俺のシャツもやられている。

 俺はいったん赤ちゃんを寝かせて、肌着を取り替えた。そのまま俺も着替える。その間中、赤ちゃんは泣き続けていた。

 また改めて抱き上げた。ゆっくりゆらしてみたり、背中をさすってみたりした。やす子おばさんのしていたことを思い返しながら、部屋中歩いてみたり、鼻歌を歌ってみたりしたけど泣き止まない。

『思い当たることをいろいろ確かめて、なにも原因がわからなかったら、もう、きっと赤ちゃんは泣きたいんだ、泣きたいなら泣けばいいよ、つきあってあげる、くらいに思って相手するしかないかもね。』

 やす子おばさんの言葉を思い出した。かんべんしてくれよ。

 でも、弱音は吐けない。俺が面倒みるって言ったんだ。


 赤ちゃんは泣き止まない。

 どれだけ時間がたっただろう。

 時計を見ると二時十五分。あれ?もっとたってると思ったのに。昼間泣いていた時の方が、もっと長い間泣いていたけど、同じくらいの時間あやしている気がする。

 昼間は、そうだ、姉ちゃんとシゲ兄ちゃんがいて、ああでもないこうでもないと言いながら、代わる代わるあやしていたんだ。たったひとりでずっと相手をし続けるって、なんてつらいんだろう。泣き止んでくれよ、なんで泣いてるんだよ、わかんないよ……。

 真里姉ちゃん。

 いつもこんな思いをしていたの?毎日毎日ひとりで赤ちゃんの世話をしていたんだよね。大変だったね。

 抱き方を変えてみたり、なでたり、ゆらしてみたり……。泣き止んでくれよ。俺も泣きたいよ……。


「悟。」

 呼ばれて振り向いた。母さんが立っている。

「母さんが代わるわ。もう大丈夫よ、悟は寝なさい。」

 俺は首を振った。
「もう少しやるよ、大丈夫。俺がやるって言ったんだし。」

 母さんは優しく笑った。
「悟はすごくよくがんばったよ。もう十分。」

『がんばったよ。』

 そう言われて、肩の力がすうっと抜けるような気がした。真里姉ちゃんがうちに来た日、母さんに、つらかったね、がんばったね、と言われて泣き出した気持ちが、ちょっとわかった。

「でも母さん、明日の仕事がつらくなるよ。」

 母さんはにっこり笑った。
「ありがとう、悟。母さんは平気よ。大丈夫だから寝なさい。」

 そう言われて俺は、母さんにお願いすることにした。でも、何かあったら手伝おうと思って、自分の部屋には帰らずに居間で寝ることにした。

 母さんは、赤ちゃんを抱いた。

「さあ、涼太君。あなたも寝ましょうね。よしよし。」
優しく包むように抱いて、母さんは赤ちゃんに話しかけながらゆっくり歩いた。

 しばらくして、赤ちゃんは泣き止んだ。


 母さん。母さんはすごいね。

 いつの間にか、俺は寝ていた。




 夢を見た。

 真里姉ちゃんがいる。涙を浮かべて必死に何か言っている。

 俺は、真里姉ちゃん帰ってきて!と叫ぼうとしているのに、ちっとも声が出ないんだ。

 真里姉ちゃんは、俺には気づかずに後ろを向くと、とぼとぼと向こうへ歩き始めた。

 真里姉ちゃん!そっちじゃないよ!こっちだよ!


 真里姉ちゃん!

↓第6話

第1話:https://note.com/yukiejimusho/n/n34a45e1c80a4

第2話:https://note.com/yukiejimusho/n/nfbd75598fdd4

第3話:https://note.com/yukiejimusho/n/n7d8c3e84eee0

第4話:https://note.com/yukiejimusho/n/n74b635348eb0

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