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「小学生最後の夏休み、俺はママになる」第7話(最終話)

 空気が重い、と言うのはきっとこういうことを言うのだろう、というくらい居心地の悪い雰囲気だった。

 母さんが、改めて入れなおしたコーヒーを居間に運び、俺と姉ちゃんには麦茶を入れてくれた。

「本当に……。」
真里姉ちゃんが言った。

「本当に、ごめんなさい。みなさんにはご迷惑おかけしました。」

 伯父さんが、
「まったく、子供を置いていく母親なんて、どういうことだ!」
と声を荒げた。

「それで、あの男はなんと言ってるんだ。」

 真里姉ちゃんは、うつむいたまま、膝の上で握りこぶしを作った。
「……私なりに、一生懸命話したんだけど、だめでした。父親にはなれないって。」

 伯父さんは、
「だから言ったろう、あの男はそういう奴なんだ!当てにするな!」
と言って、テーブルを叩いた。

 真里姉ちゃんが一瞬、びくっとなった。

 すると、今まで寝ていた涼太君が泣き出した。姉ちゃんが席を立つと、居間のベビー布団のところへ行って涼太君を抱き上げた。しばらくあやしていたが、泣き止まない。みんな黙ったままだ。

「……ちょっと、ごめんなさい。」
真里姉ちゃんが立ち上がると、姉ちゃんのところへ行って、
「ありがとう。」
と言って涼太君を受け取った。

 そして涼太君に頬擦りすると、
「ごめんね、涼太。置いて行ってしまって……ごめんね。」
と言って、声を出さずに泣き出した。それを隣りで見ながら、姉ちゃんまで泣き出した。

「もう、ほらほら、みんなで泣かないで。」
母さんがティッシュを箱ごと持って、姉ちゃん達の所へ行った。

「涼太君は、お腹すいたのかな?」
母さんが涼太君をのぞき込む。

「ずっとママのおっぱい飲めなかったものね。」
母さんがよしよしと涼太君の頭をなでた。

 真里姉ちゃんはそれを聞くと、顔を上げて、いきなりガバッとシャツを持ち上げると、涼太君に乳首をふくませた。涼太君は、アヒルの口でうぐうぐと勢いよく飲みだした。

 小さな小さな手を、ママの乳房に添えて。

 真里姉ちゃんは、声をころして泣き続けた。

 その時、伯父さんがぼそっと言った。
「……覚悟ができていなかったのは、あいつじゃない、私の方なんだ。」
右手に持った、コーヒーカップを見つめている。

「真里が子供を産むと決めた時。あいつの親に会った時。涼太が生まれた時……。私が覚悟を決めなければならなかった時は何度もあったのに。」
伯父さんはそう言うと、コーヒーを一口飲んだ。

「父親として、私は娘の一番の味方でなければならなかったはずなのに、私は娘が悩みを打ち明けられる相手ですらなかった。」

 真里姉ちゃんは伯父さんを見ると、あわてたように
「私、そんなつもりじゃ。」
と言った。

 でも伯父さんはゆっくり頭を振ると、
「いや、実際、お前は恵美さんには打ち明けることができたんだろう?私がその役目を担うべきだったのに、私はそういう存在ではなかったのだ。」

 真里姉ちゃんは、悲しそうな顔で伯父さんを見つめたまま、何も言わなかった。

「いや、いいんだ、今までのことは。肝心なのはこの先。」
伯父さんは、またコーヒーを一口飲んで話し続けた。

「娘のお前が、父親なしで母一人で子供を育てると決心したんだ。娘が決めた以上は、私は父親として、全面的に理屈抜きでお前の味方をすべきだったんだ。片親での子育てがむずかしいことを、私はよくわかっている。ひとりで育てると決めたお前を応援してやれるのは、お前の親である私なんだ。身近で涼太の父親代わりをしてやるのは、お前の父親で涼太の祖父の、私が一番いいじゃないか。もっと早く、覚悟を決めるべきだったんだ。」

 伯父さんは、そこまで言うと、残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「真里。」
伯父さんは、カップを置くと、真里姉ちゃんをまっすぐ見た。

「はい。」
真里姉ちゃんは、おっぱいを飲んで、そのまま寝てしまった涼太君をしっかり抱きながら、伯父さんを見た。

「会社に、異動願いを出したんだ。今の仕事にけりをつけてからでないといけないが、こんど、今までのような出張や単身赴任はなくなる。そのかわり給料はずっと減るが、お前達を養うくらいはなんとかなると思う。八月いっぱいでどうにかする。九月からは、真里と涼太ともっと一緒にいる。……私は、子守もうまくないし、わからないことだらけだが、努力するつもりだ。」

 真里姉ちゃんは黙って聞いている。

「真里、お前、父さんに赤ちゃんの世話の仕方、教えてくれるかい?」

 真里姉ちゃんはまた泣き出した。こんどは声を上げて。姉ちゃんも隣りで泣いている。母さんが笑い出した。
「いやあねえ、加奈子ったら。」

 ポンポンと、母さんは泣いている姉ちゃん達の背中を叩きながら笑った。笑いながら、母さんも泣き出した。




 伯父さんは、一泊して帰った。

「結局甘えっぱなしですまないが、八月いっぱい、どうか手をかしてほしい。」
伯父さんは、母さんと姉ちゃんと俺に頭を下げた。

 母さんは笑った。
「いいわよ、私は涼太君の大叔母さんだもの。それに、うちには頼りになるベビーシッターが二人もいるしね。きっと真里ちゃんを助けてくれると思うわ。」

 俺と姉ちゃんはふふんと腰に手を当てて笑った。


 「ふーん、じゃあ、夏休みの間は真里さんいるわけだ。」

伯父さんが帰った次の日の月曜日、シゲ兄ちゃんが自分の手帳を見ながら言った。

「気分転換に出かけたい時はいつでも声かけてよ!お供します!」

 真里姉ちゃんは、くすっと笑って、
「どうもありがとう。」
と言った。

「うん、それいいかもね!たまには息抜きも必要よ。」
母さんが言った。
 
 姉ちゃんは、やっぱりおもしろくなさそうな顔をしている。

「さあ、加奈ちゃん!勉強、勉強!俺、気合入ってるから!」
シゲ兄ちゃんが胸を張る。

「俺さ、就職活動、イマイチ気が乗らなかったんだけど、がんばるって決めたんだ。やりたいことがはっきりわからないままだけど、俺を雇ってくれる会社が見つかったら、自分には合わないと思う仕事内容だったとしても、与えられたその仕事を一生懸命やってみようって。とにかく、今この場で、俺のできるすべてに全力で取り組んでみようって。それで失敗したらそれはそれできっと俺の力になるさ。」
シゲ兄ちゃんはそう言うと、真里姉ちゃんを見て、
「真里さんに負けないように、がんばるぜ、俺!」
と言った。

 姉ちゃんは口をとがらせて、
「おお、おお、言ってる、言ってる、うさぎちゃん。」
と言った。

「うさぎちゃん?」
きょとんとする俺と真里姉ちゃんと母さん。ぎょっとした顔のシゲ兄ちゃん。

 姉ちゃんはニヤッと笑うと、
「デパートのバイトって、うさぎの着ぐるみでしょ?シゲ兄ちゃん?」
と言った。デパートの……。あー、屋上にいたうさぎ?

「なんでわかったんだ?」
びっくりした顔のシゲ兄ちゃんを見て、満足そうな姉ちゃんの顔。

 真里姉ちゃんは手を口に当てて、
「いやだ、私知らないであんなこと……。」
と顔を赤くしている。

 あわてるシゲ兄ちゃん。天井を見たりうつむいたりしながら、いや、えっと……なんて真里姉ちゃんをチラチラうかがっている。

 うーん、姉ちゃん、シゲ兄ちゃんへのいやがらせのつもりみたいだけど、真里姉ちゃんにシゲ兄ちゃんを意識させちゃうことになったかも??……ま、わからないけど。




 それから一週間くらい。

 うさぎがシゲ兄ちゃんとわかって、真里姉ちゃんは始めは恥ずかしそうに決まり悪そうにシゲ兄ちゃんと接していたけど、シゲ兄ちゃんの明るさにつられて、半分開き直ったようにシゲ兄ちゃんとよく話すようになった。

 もともと同い年だし、話題は合うのかもしれない。そしてそれが姉ちゃんにはおもしろくない。姉ちゃんはかなり前からシゲ兄ちゃんが好きだ。もしかしたら初恋なのかも。で、シゲ兄ちゃんは全く気が付いていない。

「ねえ、シゲ兄ちゃん知ってる?最近この辺に出る不審者情報。髪の長い女の人でね、ひとりでいる子供に声をかけてくるんだって。おばさんのところへ来ない?って聞いてくるらしいよ。ちょっと怖いよね。私も一人で歩くし心配。」
シゲ兄ちゃんの気を引こうと姉ちゃんが話しかける。

「ああ、俺も聞いたよ、それ。でも声かけられるのは小さい子ばっかりらしいから、加奈ちゃんは平気じゃねえ?」

 ……姉ちゃんの、シゲ兄ちゃんと一緒に歩きたい作戦が失敗に終わった……。

 自分で言うのもなんだけど、俺は割とそういうのに気が付く。姉ちゃんの影響で小さい頃から相当読み込んだ少女漫画の影響?その俺が、またひとつ気付いてしまった。

 慶太のことだ。

 この前の帰り際の様子が気になって、あれから注意していたんだけど、驚いたことに慶太は俺の姉ちゃんが好きみたいなんだ。

 うちに来るときょろきょろと姉ちゃんを探し、見つけるとチラチラと様子をうかがい、姉ちゃんに話しかけられるとぎこちなく対応する。普段冷静な慶太が挙動不審。

 思えば、前は慶太も正みたいに「悟の姉ちゃん」と俺の姉ちゃんを呼んでいたのに、いつからか「加奈子さん」と呼ぶようになった。びっくりだ。あの慶太が姉ちゃんをねえ。

 とりあえず、俺はしばらく気付かないふりをすることにした。正は絶対気付かないしな。




 その日、姉ちゃんとシゲ兄ちゃんは二階で勉強。母さんは店。真里姉ちゃんは二階のベランダで洗濯物を干していた。

 暑いけど風がよく入って気持ちよかったから、居間の窓を開けて風を入れて、日が当たらないようにして窓際に涼太君を寝かせていたんだ。

「涼太君、おむつは大丈夫そうだね。さて、何して遊ぶ?」
俺は涼太君の手を軽く握って話しかけた。そうしたら。

 笑ったんだ。にぱって。

 え?何?今の。俺はびっくりして涼太君の顔を覗き込む。

「涼太君、今笑ってくれた?」

 すると、また笑ってくれたじゃないか!すげー!俺、すげー!笑ってもらえたよ!こんなかわいい顔で!

 俺は誰かにこの感動を伝えたくて、二階にかけ上がった。そこへ洗濯物を干し終えた真里姉ちゃんが下りてきた。

「真里姉ちゃん!今、涼太君が笑ってくれたんだよ、俺に!」

 真里姉ちゃんは嬉しそうに笑うと、
「わあ、そうなの?最近笑ってくれることが増えてきたみたいで、私も嬉しいの。」
と言った。

 俺は真里姉ちゃんの手を取った。
「ねえ、ちょっと見に来てよ!超かわいいんだから!」

 真里姉ちゃんはクスクス笑いながら、
「はいはい、行こう行こう。」
と言って、ふたりで居間に戻ったんだ。だけど。


 いない。

 どういうこと?涼太君が寝ていた場所に、バスタオルだけが残っている。

 涼太君は、手足をバタバタさせて反動でズリズリ床を移動することはあるが、こんな短時間の間に見えなくなるほどの移動はまだ出来ないはずだ。

 カーテンが風で揺れる。

 と、窓は開けてはいたものの網戸だけは閉めていたのに、網戸も開いていることに気付いた。

 俺は真里姉ちゃんと顔を見合わせる。と、そこに玄関のチャイムが鳴った。

「悟!いるか?」
正の声だ。

 玄関に出ると、正と慶太。

 俺の後ろから出てきた真里姉ちゃんを見て、慶太が、
「あ、ごめん、お客様?今日は遊べないか。」
と言った。

 俺は、
「ああ、この人がこの前言ったいとこの真里姉ちゃんだよ。」
と紹介したんだけど、慶太と正が顔を見合わせて、あれ?って顔で言った。

「俺ら、たった今すれ違った女の人が真里姉ちゃんかと思ったよ。じゃああれは誰?涼太君を抱いてた女の人。」

俺の後ろで、真里姉ちゃんが小さく「ひっ」と言って両手で口を押さえた。

「そっそれ!どんな女の人だったっ?」
思わず慶太につかみかかる。

 慶太はびっくりして、
「え?何?どうした?」
とたじろいだ。

「涼太君がいなくなったんだ!その人に、居間の窓から連れていかれたのかも!」
俺の怒鳴り声が聞こえたらしく、二階からシゲ兄ちゃんと姉ちゃんが下りてきた。

「え……えっと、すごく髪の長い人だった。」
慶太が答え、横で正がうなずく。

「髪の長い……。この辺に出る不審者?」
姉ちゃんがつぶやく。

 それを聞いてシゲ兄ちゃんが言った。
「君ら、すれ違ったばかりなんだろ?ならまだ近くにいるな。急いで探そう!加奈ちゃん、警察に電話して!」

姉ちゃんは無言でうなずいて電話をかけに走った。

「君らも手伝ってくれるか?悟と三人で一緒に探してほしいんだ。」
慶太も正もうなずいた。

「その女の人はどんな行動に出るかわからないから、絶対一人になるなよ?見つけても飛びかかったりせずに、行き先を確かめるんだ。」

「お、俺、母さんに携帯持たされてる。見つけたらシゲ兄ちゃんに電話するよ!」
正が携帯を取り出した。

 シゲ兄ちゃんが自分の番号を登録する。

 真里姉ちゃんが口に手を当てたまま青ざめているのを見て、シゲ兄ちゃんが真里姉ちゃんの肩を揺さ振った。

「真里さん!しっかりして!君は加奈ちゃんの電話が終わったら、加奈ちゃんと二人で行動して!俺は一人で探す!もう先に俺らは行くからな?」

 真里姉ちゃんははっとして、あわててうなずいた。

 俺達は家を飛び出した。


 まず、慶太と正がすれ違ったと言う場所に来ると、シゲ兄ちゃんと別れて探すことにした。歩きだったらしいし、赤ちゃんを抱いているし、まだ近くにいると思うんだけど。

 どうか、涼太君、無事でいて!


 

 住宅街を抜けて学校近くまで探し、別のルートで半分戻るようにして公園を通って商店街まで来た。細い道まで考えると、いろんなルートがあり過ぎて、いったいどこを歩いているのか手がかりすらない。

 と、慶太が上の方を指さして言った。
「あれ見て。歩道橋の上。加奈子さん達だ。」

 言われて見上げると、商店街の大きな通りにかかっている歩道橋の上に、姉ちゃんがちょうど上がったところで、その前に仁王立ちの真里姉ちゃん。

 真里姉ちゃんの正面には。

 髪の長い女の人!涼太君を抱いている!

「シ、シゲ兄ちゃんに電話!あ、あと警察に電話!わ!わ!」
あわてて正が携帯を取り出して電話をし始めた。

 慶太はあわてる正のそばで、正を落ち着かせる。

 俺は歩道橋に向かって走る!

「あ!悟!」

 慶太が呼び止めるのが聞こえたけど、俺はかまわず走った。歩道橋近くまで来て、真里姉ちゃんの声が聞こえた。

「その子は私の子です!返してください!」

「あなたの子?ううん、私の子よ。」
髪の長い女の人はゆっくり答える。

「何を言ってるの?涼太は私の息子よ!」

 叫ぶ真里姉ちゃんを見つめて、女の人は言った。
「りょうた?誰?それ……。」

 そして抱いている涼太君を見つめる。

「違うの?私の子じゃないの?私はずっと待ってるのに。赤ちゃんが私のところに来てくれるのをずっと待ってるのに。どうして私のところへは来てくれないの?うんとかわいがるのに。私はいいお母さんになるのに。」

 そして涼太君を抱き上げると、歩道橋の手すりの外側に涼太君を突き出した!

「きゃああああああっ!」
姉ちゃんが悲鳴を上げた。

 その声で、周りを歩く大人達が立ち止まる。

「私の子にならないのなら、さようなら。」

 そして女の人は。


 手を放した!


 俺はその前から飛び出していた。

 無我夢中で歩道橋の真下に向かって。車道をつっきって。

 クラクションが鳴るのが聞こえたけど、せいいっぱい落ちてくる涼太君に向かって腕を伸ばした。


 お願い!届いて!

 ……ギリギリ、だった。

 どうにか届いて涼太君を胸に抱きかかえたんだけど。

 受け取った衝撃に耐え切れなかった。

 本当は、そのまま中央分離帯に転がり込みたかったのに、車道の上に倒れ込む。

 クラクションと急ブレーキの音。


 もうダメだ、轢かれちゃう!
 涼太君を守りたかったのに!

 ギュッと目をつぶった時。


 「悟!」

 声がして、がっしりした腕が、俺と涼太君をかっさらうようにしてゴロンと転がった。

 おそるおそる目を開けると……シゲ兄ちゃんの顔。

「大丈夫か?」

 必死の形相で額にも首にも汗が流れている。中央分離帯の上。

 涼太君を見ると。

 にぱっと笑った。
 良かった・・・。

「シゲ兄ちゃん、ありがとう。」




 一部始終を見ていた周りの大人たちが歩道橋に集まって、女の人を取り押さえて、後から駆け付けたおまわりさんに女の人を預けた。

 涼太君とシゲ兄ちゃんと俺は、念のため病院に運ばれ、真里姉ちゃんは警察で事情を聞かれた。

 姉ちゃんは後から連絡を受けた母さんと一緒に警察と病院とをまわった。

 幸い涼太君はケガもなく、シゲ兄ちゃんと俺が軽いケガをした程度で済んだ。

 慶太と正はそれぞれ家に無事に帰った。お礼言わなきゃな。

 ここしばらく情報が寄せられていた不審者がつかまったということで、歩道橋での一件はちょっとしたニュースになり、後でわかったことは、あの髪の長い女の人は、ずっと赤ちゃんが欲しくて、でも生まれなくて、長い間病院に通って治療を受けていたみたいだ。でも、その長い間にちょっとずつ心の病気にかかってしまったんだって。

 あの女の人がしたことは、当然悪いことだ。もうちょっとで涼太君が死んじゃうところだったんだから。そもそも、人の家に勝手に入って誘拐したわけだし。

 でもなんだか俺は、あの女の人がちょっとかわいそうにも思えた。

 きっとすごくすごく赤ちゃんに会いたかったんだ。すごくすごくお母さんになりたかったんだ。

 世の中には、せっかく生まれた赤ちゃんを捨ててしまったり、虐待したり、殺したりする親もいる。そういうかわいそうな赤ちゃんや子供たちはどうして、子供が欲しいと願っているお父さんとお母さんのところに生まれてこれなかったんだろう。

 真里姉ちゃんは、当たり前だけど相当ショックを受け、神経質なまでに涼太君にべったりはりつき、絶対に離れようとしなかった。

 暑くても窓を開けず、エアコンと扇風機をつけて過ごす。

 涼太君がさらわれたことは俺も責任を感じていたから、真里姉ちゃんがどうしてもそばにいれない時は、俺がずっと涼太君と一緒にいるようにした。

 でも、毎晩必ず電話をかけてくる伯父さんの優しい言葉と、暑苦しいまでに明るく励ますシゲ兄ちゃんのおかげなのか、少しずつ真里姉ちゃんも落ち着いてきた。

 母さんや姉ちゃんのさりげないフォローも、真里姉ちゃんを安心させたんだと思う。

 俺は、真里姉ちゃんに抱かれて眠る涼太君の、かわいい寝顔をのぞき込んでいる。

「私ね、助産師さんが言ってたことを思い出したの。」
ふいに真里姉ちゃんが言った。

「どんなこと?」
俺は聞いた。

「あのね、私が涼太を産んだ直後にね、『真里さん、よくがんばりましたね、痛かったでしょう、苦しかったでしょう。でもね、産まれて来た赤ちゃんはもっともっと苦しかったんですよ。せまい道を一生懸命通って、痛くて苦しくて、でもお母さんに会うために、この世に生まれてくるために、必死でがんばったんです。みんなそうやって生まれてきたんです。』って。」

「へえ。」

「でね、『だから、生きていく上でいろんな苦しいことがあっても、一生懸命耐えてがんばれる力を誰でも持っているんですよ。でもそれを、赤ちゃんは大きくなると忘れてしまいます。そうしたら、お母さんがそれを教えてあげてくださいね。』って。」

「……俺も、そうなのかな。」

「うん、絶対そうよ。私は、いろんな人の力を借りないとだめな頼りないママだけど、いつか、それを涼太に教えてあげられるように、私自身せいいっぱいがんばろうと思う。」
真里姉ちゃんが微笑んだ。

 ずっと黙って聞いていた母さんが言った。
「ちょっとずつでいいのよ、真里ちゃん。だいたい、子育てはお母さん一人だけでできるものじゃないから。周りの力を借りていいんだよ。涼太くんはまだ0歳。真里ちゃんも、ママとして0歳ってことなのよ。ママとしての歳は子供の歳と一緒!一緒に成長していくんだから。お互いにちょっとずつ育てられて成長していくのよ。」

俺は笑ってしまった。

「え?笑うところ?」

不思議がる母さんに、
「この前、父さんも似たようなことを言ってたんだ。母さんと父さんは、やっぱり夫婦だったんだなあって思って。」
と言った。

 母さんは、決まり悪そうに苦笑した。

 いいんだ、俺は、この母さんと、あの父さんの子供でよかった。

「ねえ、母さん。」

「なに?」

「俺、今回の通信簿あんまりよくなかったけど、二学期は態度を改めてがんばります!」

「ええ?本当?」
母さんはそう言って笑った。

 でも本当だよ、母さん。せりふは慶太の受け売りだけど、本当だよ。

 俺も、シゲ兄ちゃんが言ってたみたいに、今、この場でできることを一生懸命がんばってみる。

 涼太君に負けないくらい、毎日成長していくんだ。




 そして、真里姉ちゃんと涼太君が帰る日がやってきた。

 向こうの駅までは、伯父さんが仕事が終わってから迎えに来てくれるらしいので、こっちを出るのは夕方だ。

「ごめんね、真里ちゃん。夕方はお店が一番忙しくて、私は送っていけないわ。」
謝る母さんに、真里姉ちゃんは、
「そんな、謝らないでください。さんざんお世話になったのに。本当にありがとうございました。」
と言って、頭を下げた。

「もう、いいのよ、そういうのは。でも荷物が多くて大変だろうから、荷物持ちをシゲちゃんに頼んであるからね。加奈子と悟も手伝わせてね。」
と母さんは笑って言った。

 と言うわけで、真里姉ちゃんが涼太君を乗せたベビーカーを押し、その横に小さめの鞄を持った姉ちゃんが歩き、その二人の後ろから大きな鞄を持ったシゲ兄ちゃんと俺が歩いている。今日のシゲ兄ちゃんは気味が悪いほど無口だ。

 駅に着き、ホームまで見送ることにした。

 ホームで真里姉ちゃんは、軽くため息をつくと、
「加奈ちゃん、悟君、重人さん。本当にお世話になりました。」
と言って、深々と頭を下げた。

「え?もうやだ、そんなことしないで?」
姉ちゃんが慌てる。

 俺も続けて言った。
「俺、この夏休みいろいろあったけど、真里姉ちゃんと涼太君のおかげで楽しかったよ。小学生最後の夏休み、すごい充実してた。」

 真里姉ちゃんは微笑むと、小さく「ありがと」と言った。そしてシゲ兄ちゃんを見ると、
「重人さんをすっかり巻き込んでしまって。迷惑もかけちゃったけど、感謝してる。」
と言った。

 シゲ兄ちゃんは、バッと顔を上げて何か言いかけて、うつむいてしまった。

 電車が入ってくる。

「真里姉ちゃん、気を付けてね!伯父さんによろしく。」

「涼太君、元気でね!また遊ぼう!」

 涼太君を覗き込むと、にぱっと笑った。

 しばらくお別れだね。次に会う時は、もっと大きくなってるんだろうね。俺も大きくなるよ。

 真里姉ちゃんが、じゃあ、と言って電車に乗り込んだ。発車アナウンスが流れる。

「みんな、ありがとう。」
真里姉ちゃんが手を振った時、姉ちゃんがシゲ兄ちゃんを振り返った。

「ちょっと!シゲ兄ちゃん!言うことないの?」
そう言って、シゲ兄ちゃんの後ろにまわると、シゲ兄ちゃんの背中を思いっきりたたいた。

「しっかりしなさいよ!」

 うわっと言って前に一歩踏み出したシゲ兄ちゃんがようやく顔を上げた。
「俺……。」

そして、真剣な顔つきになると、
「俺!真里さんと!」

 プシューッ!

 電車のドアが閉まった。真里姉ちゃんがドアの窓に寄ってシゲ兄ちゃんを見つめる。

「がんばれ!シゲ兄ちゃん!」
姉ちゃんが叫んだ。

 電車が動き出す。

 シゲ兄ちゃんが真里姉ちゃんを見つめながら、電車と一緒に歩き出した。そして真里姉ちゃんに向かって叫ぶ。

「真里さん!俺、君と涼太君が好きだ!」

 真里姉ちゃんが赤くなった。電車のスピードが上がる。シゲ兄ちゃんが走り出す。

「俺!真里さんと涼太君にまた会いたい!会いに行ってもいいか?」

 電車のスピードがさらに上がる。もう真里姉ちゃんの顔は俺には見えない。

「俺、絶対会いに行くから!二人に会いに行くから!」
シゲ兄ちゃんは叫びながらホームを走っていく。

 ああ……こういうドラマのシーン、見たことあるなあ……。なんて思いながら、横の姉ちゃんを見る。

 こういうのを泣き笑いって言うのかな。姉ちゃんの目は、もうこぼれそうなくらい涙でいっぱいで、だけど顔は笑っているんだ。

 姉ちゃん、俺、前言撤回。

 姉ちゃんは、真里姉ちゃんよりイイ女だ!




 夏休み最終日。

 慶太と正がやってきた。

「悟、宿題終わった?」
玄関を開けた途端、正が疲れた顔をして言った。

 俺は、ふふんと胸を張った。
「当然終わってる。」

 正が驚いた顔をして、
「ええっ!なんだよう、一緒に苦しもうと思って来たのに!慶太はとっくだし!」
と、盛大にため息をついた。

 そうなんだ、この夏休み、すごく忙しかったはずなのに、俺は山のような宿題を終わらせていた。忙しいとかえって時間を上手に使おうとがんばるものなのかもしれない。

 そこへ、二階から姉ちゃんが下りてきて、玄関に顔を出した。
「あれ、二人ともいらっしゃい。悟、私ちょっと図書館行ってくるね。」
姉ちゃんはそう言うと、二人の脇を通って靴を履き始めた。

 すると正がポンと手をたたいて言った。
「おう、慶太!お前も図書館行きたいんだろ?」

「え?俺?」
言われた慶太はきょとんとしている。

「忘れたのかよ、歴史のナントカいうやつ調べたいって言ってたろ?悟の姉ちゃん!俺、宿題終わってなくて、慶太につきあってやれないんだ。姉ちゃん行くなら、慶太も連れて行ってやってよ。」

正にそう言われた姉ちゃんは、
「うん、私は別にいいけど。」
と答えた。

 正は笑って慶太の肩をたたくと、
「そういうことだから慶太、行ってこい!」
と言った。

 慶太はとまどいながらも、
「あ、うん。」
と答えて、姉ちゃんと二人出て行った。

 俺は正を見た。
「何?歴史のナントカ?」

 そう聞くと、正はニヤッと笑った。
「テキトー、テキトー。つうか、悟も気付いてるだろ?慶太がお前の姉ちゃんを好きなこと。」

 俺は驚いた。
「え?正、気付いてたの?」

 正は考えるような顔をして天井を見た。
「ええっと、だいぶ前だよ、五年生の始め頃だった?なんか態度がおかしくなって、悟の姉ちゃんのこと、加奈子さんって呼ぶようになってさ。」

 げげっ。俺よりはるか前から気付いてたのかよ。

「俺としては慶太を応援したかったんだけど、お前の姉ちゃんはそれよりずっと前からシゲ兄ちゃんが好きだろ?だから応援しにくくてさ。」

…………。

「でも、姉ちゃん、最近ふられたみたいだろ?」

「なんでお前、それ!」
驚いた俺を見て正は笑った。

「いやあ、なんとなくわかるよ。だからさ、それなら遠慮なく慶太を応援しようと思ったわけ。いいだろ?頼まれたわけじゃないし、慶太は隠してるつもりかもしれないけどさ、見ててほっとけないんだよな。慶太はいいやつだし、俺らの親友だもんな?」

 ……驚いた。のほほんとしているようで正のやつ、あなどれない!

「でもって。宿題だよ、宿題!ああ、俺だけかあ。」
正がまたため息をつく。

「だいたいさ、習字って何よ?毎年習字と言えば冬休みの宿題、書き初めだろ?なんで今回は夏休みもあるんだよ?習字コンクールに出品って。」

 ……ん?習字?

「悟はどのコンクールの課題の習字書いた?」

俺は固まった。

「どうした?悟?」

「……俺、習字の宿題なんてあるわけないって思い込んでたのか、見落としてた。」

「え?やってないの?」

「……うん。」

 正の顔が明るくなった。

「それでこそ俺の親友、悟!一緒に苦しもうぜ!来た甲斐があった!」

 ……なんてことだ、習字の宿題なんて全然目に入ってなかった。嬉しそうな正、いっきにどんよりムードの俺。

 しかたないから二人で習字の準備を始めた。

 墨汁のキャップをあけようとしたが、墨が固まってうまくあかない。俺は力任せにひねった。
 
 ブシュブシュッ!

 うおっ!墨がはねた!最悪!

 正がびっくりして俺を見て、噴き出した。

「ぶっ!お前、この前はカレーもどきのウンチで、今日はイカスミパスタもどきの墨汁かよ?面白過ぎる!」
そしてゲラゲラ笑い出した。

 小学生最後の夏休みは、余裕で宿題を終わらせて、ゆったりと最終日を過ごすはずだったのに。結局バタバタないつも通りの最終日になりそうだった。

                                    おわり

最後まで読んでいただきありがとうございました!

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