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一人っ子論の歴史(4)~なぜバッシングされてきたのか

▼今回の記事のハイライト▼

最近の一人っ子肯定論では、「産めよ殖やせよ」政策が一人っ子バッシングの起源であり、ターニングポイントと説くものが見られる。
しかし、これまでの記事でも見てきたように、日本における一人っ子バッシングは太平洋戦争が始まるよりも前に登場しているから、この起源論はいったん否定してみなくてはなるまい。
兵隊を増やすことが至上課題とされた時代において、一人しか子どもを産まない女性をバッシングしつつも、バッシングも含めて母子に積極的なアドバイスをすることで、国家が兵士育てをバックアップしてゆこうとしたと考えられる。
「鍛練によって兵隊にふさわしい人間にうまれかわることができる」というのが、一人っ子に求められた姿だったのではないか。

この記事は連載企画「一人っ子論の歴史~なぜバッシングされてきたのか」の第4回です。

▼第1回、第8回無料公開しました▼

前回の記事では、1920年代に起きた一人っ子への「追い風」と、同年代の日本で一人っ子をめぐる言論にどのようなものがあったかについて触れた。

今回の記事では、1930年代において、1920 年代に出始めた一人っ子否定論が「教育相談」を媒介に複製を繰り返されて拡散した様子と、戦争末期の1940年代の状況について見ていきたい。

●一人っ子バッシングは太平洋戦争起源か

1939 年 9 月、当時の厚生省は「結婚十訓」を発表し、そのなかで「産めよ殖やせよ国のため」をうたった。

この頃の日本では、人口増加に悩みつつも、いかに女性の厭戦気分からくる産みびかえによって下がる出生率をくいとめ、出産に導き、兵隊を継続的に供給し、人口の排出先である植民地の獲得・維持を行うかが模索されていた。

また、父親が戦死した家庭で、母親がいかに遺児をたくましく育てるかという課題もうまれ、母親の役割は更に重要視されていた。

最近の一人っ子肯定論では、「産めよ殖やせよ」政策が一人っ子バッシングの起源であり、ターニングポイントと説くものが見られる。
しかし、これまでの記事でも見てきたように、日本における一人っ子バッシングは太平洋戦争が始まるよりも前に登場しているから、この起源論はいったん否定してみなくてはなるまい。

では、戦争の足音が近づく中での一人っ子論はどのような状況にあったのだろうか。

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