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過去の植木、未来の植木

移住、移住、移住ってよく言ってるけど、今のあなたのアイデンティティー、そこにしかないわけ?移住してたって、そのことを強調しないで、もう次のステージに行ってる人、たくさんいるでしょ?

…という声が、つい最近、自分のなかで聞こえた。

冒頭の言葉で怖がらせてしまった人がいたら、申し訳ない。これは完全にわたしからわたし自身へ向けた内なる声であることをまずお断りしておく。

実家で暮らしていた頃(子供の頃)のこと、会社員の頃のこと、そして大病をした頃のこと、仕事を辞めたこと。これらの経験が、現在のわたしを語る上での大きなコアになっていることは間違いない。最近では地方移住したこともここに追加された。

(妊娠、出産し、母親として育児していることもコアのひとつではあるはずなのだが、乳児とはいえ子供には子供なりの人生があるし、わたしのアイデンティティの紆余曲折に巻き込みたくない、子供を生きがいにはしたくない、という思いがある。同時に、将来冷たい目で「お母さんはわたしにあまり関心を持ってくれなかったね」などと言われたらどうしよう、という不安も既にある。)

しかし、こうした経験は、言ってしまえばすべてがもう過去だ。過去は過去として振り返るのをやめ、未来のみを見つめてゆく、という生き方もある。そう、わたしの語りは過去に重きを置くことが多い。しかも、過去には主に被害者だった、周囲から傷つけられていた、という視点での振り返りが多い。まるで加害者だったことは一度もなく、誰かを傷つけたことなどない清廉潔白な人間として生きてきたかのような印象を受ける人もいるのではないか。

つい先ほど、子供をアイデンティティの紆余曲折に巻き込みたくないと書いたが、被害者、加害者にまつわる事象・・・具体的には「いじめ」に関する思い出については、子供でも分かるようなものを、何かかたちにして残しておきたいという思いがある。かたちにしたら、どう解釈するか、そもそもそれを手に取るか否かは子供に任せたい。近く山崎聡一郎さんのご著書などを取り寄せてみるつもりだ。

(以前、SNSのとある相互さんが「自虐をやめたら人に伝えたいことがなくなった」と書いていらして膝を打った。趣は違うのかもしれないが「被害者であることをやめたら人に伝えたいことがなくなる」という面はあるかもしれない。では、加害者として人に伝えたいことは・・・?そもそも、加害者であること、加害者であったことを表明する行為自体を躊躇するのだろう。)

未来についての考えを深めること。すぐには難しいかもしれないが、これからは過去の植木だけでなく、ちゃんと未来の植木にも水をやらなくては、と思う。
例えばわたしは市原悦子さんのようなミセスになることを密かな目標のひとつにしているのだけれど、さっき調べたら市原さんは私と同い年の時に劇団を退団しプロダクションを立ち上げていた。それまでに数々の実績を積み重ねてきているからこそ成し得た行動であることは言うまでもないが、もし真似するとしたらどこから真似しようか…

もちろん、過去は過去として大切にしていこう。過去は変えられないし、自分の土台として大切にしたい気持ちもある。そもそも、過去になりきっていない過去(現在進行中の過去)だってある。移住のことなどもそうだ。わたしにとって、わたしを取り巻く人々にとって、移住って何なんだろう、という問いは、まだ胃のなかででんぐり返しを続けている状態だ。これらについて考え続けることはわたしにとって意味のある行為で、未来を考えるためにも必要なプロセスだ。だからまた何度も「過去語り」をすると思う。そういう意味では、他人と比べて無理やり「次のステージ」に行かなくてもいいのじゃないだろうか。

🍩食べたい‼️