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作品の空漠に鑑賞者は遊ぶ

「作品自体に」制作者の「思い」や「思想」や「哲学」が無ければないほど、作品自体に力のある空漠が出来て、観る人、使う人はその空漠で自由になれます。

最も良心的な制作者が行うのは、作品に「鑑賞者・使用者が自由に遊べる場をつくること」です。

その「場」が大きくて深い、そして可変性がある自由な空間であるほど、観る人、使う人はそこで自分の自由を、そして自分自身を発見出来るのです。

制作者自身の、自分の思いや思想に満ちた作品というのは、観る人、使う人に自由を与えません。

それは一見優しげであったり、道徳的な教えがあったり、自由な雰囲気を持っていても、ただ「一方的な言葉」に満ちているのです。「制約された世界」なのです。

言葉は当のものではありません。

そのような作品には、制作者以外の人は参加出来ません。

そのような場では、鑑賞者は作品自体と遊ぶことは出来ないのです。

最も愛情に満ちた作品は、鑑賞者の自由があるものです。

「自由というもの、愛というものを、表現したもの」

ではありません。

「自由そのもの、愛そのもの」

がそこにあることです。

それには、制作物に、鑑賞者が自由に自己発見するための「エネルギーに満ちた空漠」が必要なのです。

最良の作品は、作者が作品によって鑑賞者に何かしらの教えを与えるのではなく、鑑賞者の自己発見の場をつくるものだと私は考えています。

基本的に、人は自ら発見したもの、納得したものから進化するからです。

そのような創作物は、例えば絵画だとしたら、それは【「思い」や「思想」や「哲学」の向こう側にある】ものなのです。

単なる意思表明なら、画像や映像を交えて演説した方がより効果的で、思い通りの結果を得られます。

いわゆるアート分野の作品で、それをする必要は無いと私は考えています。

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