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作品の「空漠」のありかたが、そのつくり手の個性そのものになる

創作物の性質・・・において、その作品が保つ固有の「空漠」というのが重要な要素だと私は思っています。

「良く出来た作品は、制作者と鑑賞者の両者が参加出来る”空漠”を持っており、その空漠が大きく深いほど、その作者の表したいものが伝わり、鑑賞者がその作品と密接になる」

というものです。

「空漠」・・・何も無いがエネルギー自体は強い空間。とても大きく、しかしそれを名前のある何かとしては捉えられない感じ・・・です。もちろん、作品のサイズや規模とは関係なく、作品の性質のことです。

誰かが制作した作品を、より深く理解しようとすることは、その作品そのものの成り立ちに参加することです。

制作者は、作者ですから、作品を内側から観ています。

しかし、同時に外からの視点も、人によって違いますが、ある程度持ちます。

鑑賞者は、外側から観ますが、しかし、深く作品を把握すると、中から観ることにもなります。

そのように、制作者と鑑賞者の両者が合一する場が「作品が持つ固有の空漠」なのです。

(固有の空漠=その作者の個性でありながら、個性が開花しているゆえに普遍とつながるもの。個性と普遍が同一で切り離せない状態のもの)

「空漠」というと何か空しい感じの響きがありますが、しかし、その言葉がふさわしいと思っています。

以前書いた「モノに必要な余白」という話では、意図的に作品に心理的な空白をつくる必要がある、という感じで書きましたが、この「空漠」について正確に言うと、

「作品をつくるにあたって真摯に対象に向かうと、作品に自然に”空漠”が産まれ、生育する。その成長を止めないようにすること」

という感じです。

「余白」の場合は「モノとモノ、人とモノとの関係に必要なゆとり」という感じの意味も多く含まれます。

「空漠」は、より精神的な部分の話で、もっと抽象的で大きな話です。

どちらにしても、対象を直接対峙した時にしか産まれません。

対象としっかり向き合えた時ほど、その空漠はより力を持ち、心理的に、制作者・鑑賞者両者の、いろいろなものを受け入れる空間として機能します。

それは意図して出来上がるものではなく、いろいろな対象にしっかり向き合えた時、摂理につながった時に、自然に出来上がり、生育していくものです。

ある意味

「自然に作品に出来上がる空漠そのものの個性が、その人の個性そのもの」

と言えると思います。

それは摂理に乗り、個性が開花した時に自然に出来上がる生育物だからです。

表に強く出るタイプの表現だとしても、良い作品ほどその空漠が大きくあります。

その空漠は「自然環境」に触れた時の感じに似ています。

例えば、青空の美しさを芯から体験した時に、その間は人の心はからっぽになります。

美しい青空は人の悲しみとも、喜びとも無関係に存在します。

その青空が持つ大きな空漠は人に寄り添ったりはしません。

しかし、青空そのものが持つ空漠そのものの存在は、人を救います。

それはただそこにあり、その人の感情など無関係に、その人全体を全て受け入れてしまう「場」があるからです。

自然環境が持つそのような性質は、良い作品が持つ「空漠」と同質です。だから「空漠」という言葉がふさわしい、と私は思うのです。

(その空漠によって癒されたのに、癒されたと感じられる人は稀ですが。それぐらいに、その空漠の力強いのです)

人造物は自然物ほどの空漠を持ちませんが、それと同種の空漠を、大きく持っている作品ほど、良いものだと私は思っています。

それに反して「オレの主張、オレの表現」というものが前面に出ているものには「空漠」がありません。あっても、とても小さく、その空漠に参加出来る人を選びます。

そのような作品は、作品と鑑賞者との結びつきよりも、作者の思想を閲覧者に強く与えます。が、それは思想での出来事なので、深い結びつきは得られません。それは知識の範疇の遊びだからです。

それは個人の嗜好、思想で、理屈を言い合い、遊ぶのにはむしろ向いているので「以前の現代的な作品」では良くあったパターンだったと思います。そういうものは「いわゆる芸術臭いもの」独特の雰囲気を持っています。

そのようなタイプの作品は、制作者たちが「自分は芸術家である」という主張をしなければならなかった時代のものだと思います。

これからは「創作」や「美」というものは、あらゆる分野にあり、仮に絵を描こうが彫刻をつくろうが、工芸をやろうが、医療をやろうが、営業をやろうが、プログラミングをやろうが、スポーツをやろうが上下はなく、そこに創作性があり、美を宿したかどうかだけが問題になると思います。

なぜなら、人のやることに分野によって特に変わりはないからです。

いわゆる芸術家が偉いわけではないし、医者が偉いわけでもないし、精神的に進んでもいない、たまたま、その分野に能力があっただけの話であって、別に人間として優れているわけではない、ということは、現代では誰でも知っていることだと思います。

そんなわけで、私は前時代的な「芸術家選民思想」による「表現」というものは古くさいと感じます。

そのようなものは、制作者の自己満足臭と楽屋ウケ臭が強く、私は好みではありません。

そのような古い文脈で言う個性は、どこかの誰かの引用であったり、真似であったり、何かの延長線上のもので、過去の編集物であり、流行の時だけ新鮮に見えるだけでスグに古びる特性があると思います。

しかし「空漠には時間は関係ない」ので、古びたりしないのです。

そして「作品に自然に生育する空漠」には自己表現もなにもありません。

それはただ、そこに存在し、人やモノを受け入れ、ただ増幅を起こすのです。

その場には、制作者や受け手の思いや、意図や理由など存在しないのです。

なぜなら「個性が開花し、個性を超えた場」だからです。

だから自由なのです。制限がない空間なのです。

しかし、その空漠そのものには、その作者の特徴が色濃く出ているのです。

【その空漠そのものが、その作者の個性】なのです。

私は個人的に、殆どの歴史的名作はそうなっていると思っています。

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