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夢の反作用

ここで言う「夢」は社会の人々と関わり自己実現するタイプのものです。個人的な欲求や衝動から、他者とは全く関係なく、社会と精神的に隔絶し、自らの望みを実現し、それで個人の精神が満たされた=自分の夢が達成された、とするような「完全自己完結型」の事例のことは除外しています。

私は

「私は夢を持っていませんし、持つ気もありません。私にとっては夢というイメージはむしろ精神の監獄だと思うので」

と、いろいろなところで良く言いますし、私のもう成人した子どもたちへも、弟子へも「夢を持て」とは一度も言ったことがありません。

彼らは別に「いわゆる夢」は持っていないようですが、特に問題なく、未来への奇妙な期待も絶望もなく、むしろ明るく楽しく望み通りに生活しています。

また、私のところに何かつくって生活したいと相談しに来る人のなかには「いや、別に夢は無くていいですよ。夢を持った方が生きやすい人と、夢というものを持たない方が生きやすい人がいます」と私が説明すると、とても安心し、納得し、未来への展望が観えてくる人もいます。

一般的に言われる「夢を持たない人は無価値」というような価値観に振り回されて来た人が「いわゆる夢を持たなくて良い=みんなが言う夢にまつわるイメージと、自分のイメージと行動が違うことに問題はない」と分かって、むしろ楽になり、行動的になることも少なくない、ということです。

世の中で、夢は無条件で良いものであり、まして子供や、創作をする人なら持たなければならないぐらいに言われているものですから「夜に観る夢以外の、未来への希望としての夢」を持たない人は、かなり肩身の狭い思いをしているのです。

もちろん、いわゆる夢というイメージを使うことによって楽しく生きることが出来、発想が湧いて来て仲間も沢山集まる人は、大いに夢を持ち生きて行くのが良いと思います。

ただし、それを他人に強要しないで欲しい、と私は良く思います。

「夢を持たない人=やりたいことが無い、価値の無い人」

ではないのです。

何かをするにあたって、夢というイメージを使わない人もいるのです。

別に自分がやりたいこと、望みは、ただそのための行動をすれば良いことなのに、そこに「夢」という「名」を与えてしまうと、変形してしまい、余計な物事が入り込んでしまう、と感じる人は少なくないということです。

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人がより良い未来や、なりたい自分を想像し未来に投影する「夢」は、強い推進力を持ちます。

夢があるお陰で、その実現のために自分にかかる強い負荷に耐える力が産まれ、その夢に向かっている人の肯定的な姿勢に周りの人々も巻き込まれ、大きな渦が起こり、時にそれが大きな社会運動にすらなります。

それゆえ、その「夢を持ち成功した人」は夢を持つことを肯定するでしょう。それどころか人には夢がなければならない、と主張するでしょう。

しかし、

社会の多くの人は、子供の頃も、青年期も、その後も、殆どの夢は叶わないのです。

(もちろん、いわゆる夢を持っても、何もしなければ何も起きませんが)

多くの人は、どんなに努力をし、精密に計算をし、他人に貢献し、喜ばれることを実践し、それを数十年続けても、社会からさして評価されることなく消えて行くのです。時に、他人に巻き込まれて失敗したり、自分自身が起こした大きな失敗で幕引きになったりします。

そして、その人が力つきた時、人は自分自身が持った「夢の反作用」で傷つけられます。

夢への思いが強いほど、推進力が強いほど反作用としてマイナスのエネルギーが自分に向かって来ます。

「私は夢を達成出来なかった敗者だ」

「私の能力や努力が足りなかった」

「所詮、私には無理だったんだ・・・」

その他その他。。。。

それと、失敗すると精神的な部分だけでなく、夢に投資したいろいろな負債が夢観た自分にのしかかって来ます。それは仕方がありませんが。

もちろん、夢に向かって出来うることをやり切った、という満足と共にその夢から降り、自分と同じような夢を持ち努力する人、成功した人を素直に尊敬したり応援出来るようになる人もいますが、それでもはやり、夢を持って失敗した場合、人はかなり傷つきます。

しかし「夢を持ち成功した人」はそんな人たちを叱咤します。

「諦めたらそれで終わりだ。キミは本気ではないから諦めたんだ」

「夢を諦めたキミは人として敗者だ」

「キミの努力や、やり方が悪かったんだ」

「キミの”夢”や”思い”が足りなかったから失敗したんだ」

「本当の夢があれば、どんなことでも乗り越えられるのに、キミはそうしなかった。キミは怠惰でバカなヤツだ」

その他その他・・・

夢は残酷です。

自分が持った夢の反作用で自分自身が傷つけられ、さらに夢を達成した人たちからも、しつこく敗者の烙印を押されるのです。もしくは、耐え難い「生温い同情の眼を向けられる」のです。

世の中は、殆どが思うようにはコントロール出来ない人間関係によって回っているとして良いと思います。

なんとなく好きなことだけをしていたら、時流にマッチし、大成功した人。

なんとなく好きなことだけをやっていたから失敗した人。

壮大な夢を持ち、大変な努力の結果、成功した人。

大変な努力をし、実証してみせ、人々に貢献して実績をつくり、これから、という時に何かしらの不運で、失敗した人。

社会の人々にとって新しく有用なことを行う人だからこそ、古い業界から危険視され、抵抗するも力尽き、潰されて消えた人。

その他その他。。。。

例えば、ものを産み出す仕事なら、自分の作りたいものを産み出すための研究やリサーチをし、いろいろな努力し、その作りたいものを産み出すことに成功し、さらに社会の役に立ち、多少認められたとしても、それをもっと広げて行こうとする時にいろいろな理由で失敗するようなことも良くあります。

「途中までうまく行っても社会的に成功するとは限らない」のはある意味普通のこと、当然のことです。

その当然のことが「夢」が関わって来ると面倒なことになるのです。

夢は、実は多くが曖昧なものなのに、人の精神に「強い影響力を具体的に与えてしまう性質」があります。そのようなある意味危険物を「とりあえず持たなければならないとされていること」は、個人的には危険だと思っています。

夢や未来へのイメージの持ちようは、人それぞれで違い過ぎるものなのに、それを一律に肯定することの危険を私は感じます。

上にも書きましたが、夢に関して、最も残酷なのは「自分の熱烈な努力と研究で成功した人」です。

そのような人は、あらゆる困難は努力と研究と観察で乗り越えられると思っているし、実際に今までそう出来た人たちです。

そういう人は、大変優れた資質と才能に恵まれた人であり、運も持っている人です。そういう人はそうそういません。特別な人です。

そういう特別な人が夢の肯定を主張すると「夢」は他人に対して攻撃的で残酷なものになります。

また、夢は推進力が強いため、その夢語りが壮大で実現不可能な事ほど、人々を巻き込み、酔わせ、現実は何も変わっていないどころか悪化していたとしても、それが見えなくなってしまう場合があります。

もちろん、そのような渦が上手く機能してその夢が善的な方向へ向かえば良いのですが、そういうケースは実はそれほど多くないように思います。

それで現実に産まれるのは、遠大な夢とは逆方向の近視眼的な快楽主義と差別主義であり「危険な妄想世界」です。そうなると行動が先鋭化し、排他的になり、掲げている理想とは反対に攻撃的になり、現実世界ではそれは未来の破壊です。

困ったことに、政治家や、宗教家や、平和や愛を語る、いわゆるアーティストたちがその「壮大な甘い夢を語り人を巻き込む手法」を意図的に使うのです。彼らは「大きな夢を持つ人=人を導く目覚めた人」として振る舞います。

それは一見善の行為のようで、実は悪の煽動であり、犯罪行為と私は考えています。

彼らは「無責任な甘い夢想」をまき散らし、その流行が終わると、結果を総括せずに次の問題について無責任に取り上げ、甘い夢に乗せてそれを繰り返します。

そういうものは「そのイベントに関わっただけで、自分が何かした気になり、世の中が変わったと妄想してしまう危険」があり、またそれに賛同しない人を蔑み排除しようとすらしますが、正にそれが「平和商人系政治家・宗教家・アーティスト」たちの商売になるわけです。

それは「堅実に確実に行動し確かな実績を上げている人たちにとっては、全くもって迷惑な話」なのです。

どこかで【効率主義から脱却し、無責任な夢想家であろう】という主張を聞いたことがあります。

これは一見【経済優先の効率主義よりも、人間の心を優先する豊かな世界をつくろう】という主張に見えますが、これは大人が言うには無責任過ぎることです。それが夢見る文学者であっても。

現実には効率と、より良い未来の構築は分離していません。

むしろ、本当に実現する「善」のものは「いろいろな面で効率的であり、かつ人々に利益と幸福を与えるもの」です。そもそも利己を超えた本来の夢と言うべき未来イメージはあらゆる分離をもたらさない、他人も自分も攻撃しないものです。

【効率とは実質を言うのであって、非効率が必要な時には正に非効率であることが効率的ということ】

【無責任な夢想家であることで良い未来を実際につくり出すことは出来ない】

効率主義で問題なのは

【どこか特定の集団に利益を与え続けるための効率的システム】

です。

それは糾弾されるべきです。

しかし、人は集団で何かを達成しようとしたり、集団で何かを運営しようとすれば、一定の期間、あるいはある範囲において権力が必要になります。時にそれが長期に渡り維持され「既得権益」と呼ばれるでしょう。

しかし、何かしらの物事を行い、達成するのに「必要な時には必要なもの」が権力です。だからやみくもに、原理主義的に権力は悪、とすることは出来ません。そうなると「権力は悪だと主張する人が次の権力になるだけの話」です。

問題は【どこかの集団に必要だった権力が、役割が終わってからも何代にも渡り持ち続けられ、他に譲渡されないことにより既得権益化すること】です。

そのような検証なく、夢と扇動が匂うものは、私は警戒します。

しかし、そういう扇動をし、自分は安全なところに居座り、既得権益を手にし、実質的に社会の未来を悪い方向へ向ける人ほど、美しき夢を語り、ゾッとするようなキレイゴトを語るのです。

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私は夢の反作用で苦しむ人がいれば、同情します。(決して救えるとかそういう偉そうな意味でなく理解出来るという意味)

夢という既知の世界の延長線上のフィルターを捨てると、世界が明瞭に観えると私は考えます。

それは人を煽動もしないし、傷つけることもしない。

そこには、宣言ではない具体的な今の行動があります。

そして「今」には未来が含まれています。

もちろん、私はそうでありたいと思いますが、そうなれているわけではありません。

それも夢だと言われれば、同じではないと絶対的に否定します。

それは夢の性質とは無関係だからです。

自由というのは、夢という概念からも自由ということです。

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