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【連作短編】はざまの街で#1「クラムチャウダー 」

(10,824文字:お暇なときにでも)

随分ボロいと思った築50年を超えるこの家も、住んでみると意外と住み心地が良い。
高台にあるので風通しは良いし、何しろこの縁側が気に入っている。
志郎はいつもこの縁側に座椅子を置いて座り、傍らに積んだ本から、気分によって一冊を抜き出して読み耽る。
高台の下の港から、注意を喚起するような、ポッポッという短い汽笛が聞こえる。
「どうも」
その声に見上げると、黒いスーツの上下に白いシャツ、ノーネクタイの男が、ポケットに両手を突っ込んで立っている。
「あ、来栖さん、こんにちは」
志郎は本を閉じて、背中を座椅子の背もたれから離した。
「良い天気だねぇ。縁側で日向ぼっことは羨ましいよ」
「はぁ、まぁ」
「しかしまだ30代だろ?ジジクセェなぁ」
そう言うと来栖は少し下品な笑いを浮かべた。その来栖の後ろには男の子が隠れるように立っている。
「今回はこの子だ」
そう言って来栖は男の子の両肩を軽く掴んで、屈みながら、志郎の前に進むように促した。
「こんにちは」
優しく微笑みながら言う志郎の目を見ながら、男の子は黙って頷いた。少し口を開けたが、緊張で声が出ないようだった。
「名前は高原優馬くん、8歳。小学二年生」
来栖はそう言って、手元の資料を志郎に渡した。資料と言っても、来栖が口にしたことしか書かれていない。
「じゃ、あとはよろしく」
来栖は軽く右手を上げて、家の前の坂道を下って行った。

優馬は六帖二間をつなげた居間に置いたソファにちょこんと座り、背筋を伸ばして両手を膝の上に置いている。
「何か飲む?」
「あ、ありがとうございます。な、何でも良いです」
「なんでも良いは困るなぁ。オレンジジュース、ラムネ、麦茶、紅茶、あとココアもあるけど」
「それじゃぁ」
優馬が遠慮がちに上目遣いで志郎を見ながら言った。
「迷惑じゃなければココアを」
「迷惑なんてことはないよ。ここでは遠慮しなくて良いから」
志郎はキッチンに入ってヤカンを火にかけた。ガスの炎をじっと見る。優馬はどうしてここに来たのだろうか。いつも資料には何も書かれていない。
やがてピーッとヤカンが蒸気で音を立てた。志郎はガスを止め、優馬のココアをつくり、自分のコーヒーを淹れた。
ふたつのマグカップを持って居間に戻ると、優馬がソファの脇の本棚を覗き込んでいた。
「なんか面白そうな本、あった?」
優馬は慌てて座り直した。
「遠慮しなくて良いよ。この家にあるものはなんでも使って良い」
志郎は優馬にココアの入ったマグカップを渡しながら言った。
「海の生物図鑑かな。良いよ、出して読んでごらん」
「ありがとうございます」
優馬は本棚から海の生物図鑑を抜き出すと、自分が座っているソファの傍らに広げ、じっくりと観察するように読み始めた。文字もしっかり読んでいるようで、図鑑を眺める目が次第に熱を帯び始めてきた。
部屋の中に静寂が沈殿する。
夢中で図鑑に見入る優馬を、志郎はマグカップを両手で抱えて眺めていた。いったいこの子に何があったのか。

夕食は昨夜に作ったカレーにした。なるべく日常的に、歓迎しすぎない方が良い。初日は特に、こちらから多くを聞かない方が良い。相手が自然と話し出すのを待つ。それが志郎がここで学んだやり方だ。
「美味しいです」
スプーンを動かす手を止めて、優馬が志郎の顔を見て言う。
「ありがとう。2日目だからね」
「カレーは2日目が美味しいって、ママも言ってました」
「優馬くんのママのカレーも美味しそうだね」
「はい、すごく美味しいです」
そしてまた2人は黙ってスプーンを動かす。静かな時が流れる。

夕食が終わると、志郎は優馬に風呂に入るように促し、その間に2階の南の六畳間に布団を敷いた。
「優馬くん、今日からここが君の部屋だ。好きに使って良いよ。本棚の本や図鑑も好きに読んで良いから」
「わぁ」
優馬が静かに感嘆の声を上げる。壁には一面に本棚があり、小説や漫画の他、あらゆるジャンルの図鑑が並んでいる。
「じゃ、おやすみ。明日はのんびり起きてくると良いよ」
「ありがとうございます。おやすみなさい」

翌朝、志郎がそっと2階に上がって部屋を覗いてみると、優馬は布団の周囲にたくさんの図鑑を広げて、一冊を手にしたまま眠っていた。昨夜は遅くまで図鑑を眺めていたのだろう。志郎はそのまま起こさずに階下に下りた。
昼近くになって、申し訳なさそうに優馬が下りてきた。
「おはよう。気にすることはないよ。ここでは好きなだけ寝てても良いし、好きなことだけしていれば良いんだ」
それから志郎は優馬をランチに誘い、古いシトロエンの助手席に乗せた。

森の中の小さなカフェの前で車を止めた。
デッキのテーブルを拭いていた郁美が、車から降りてきた志郎たちに気がついて声をかけた。
「いらっしゃい。今日は天気が良いから、この席どう?」
「こんにちは。良いですね」
郁美の柔らかな笑顔は、誰も緊張させない。志郎が意見を求めるように優馬の方を見ると、優馬は郁美の方を向いて、明るい表情で「はい」と答えた。
「じゃ、ちょっと待っててね。お冷持ってくるから」
そう言って郁美は中に入って行った。
薄いクリーム色のニットに、ベージュのエプロンが郁美によく似合っている。
四十歳くらいかと思うが、確認したことはない。
店内に他に客はいなかった。向かい合わせに座ると、優馬にまだ緊張があるのがよく分かる。
郁美が水の入ったコップと水差しに、レモンの輪切りをふたつ乗せた小さな皿を持ってきてテーブルに置いた。
「今日のランチは、パスタかキーマカレーだけどどっち?」
カレーは、少し違うカレーだけど昨夜食べた。
「パスタは何?」
「なんでも良いわよ。私ができるものなら」
「優馬くん、どう?」
「じゃ、ナポリタンはできますか?」
「もちろん!とびきり美味しいの作っちゃう」
郁美は軽くスキップするような足取りで厨房に入って行った。
その背中を見送り、志郎は優馬にゆっくりと話しかけた。
「優馬くん、ひとつ提案があるんだけど」
「はい」
「敬語はやめにしよう」
優馬がどう答えたら良いか判断がつかない顔で志郎を見る。
「優馬くんには遠慮しないで気楽に過ごして欲しいんだ。ここでは優馬くんが敬語を使わなくても怒る人はいない。僕も、街のひとたちも、もちろん郁美さんもね」
「あ、はい、でもどうしたら良いのか…」
「友達だと思ってもらえれば良いよ。ちょっと大きい友達」
優馬は少し困った様子でテーブルを見つめていたが、
「わかった、やってみる」
と言って志郎の顔を見上げた。
「はい、おまたせ〜、郁美特製ナポリタン」
会話の区切りを待っていたかのように、郁美がナポリタンとサラダを持ってきた。
「わぁ、美味しそう」
優馬の顔が綻ぶ。
「美味しいわよ〜。さ、召し上がれ」
志郎と優馬は「いただきます」と声を揃えて言い、フォークを手にした。
郁美のナポリタンは、薄く切ったソーセージに輪切りのピーマン、スライスした玉ねぎというオーソドックスな見た目だったが、オリーブオイルがほのかに香り、トマトの酸味が爽やかでいくらでも食べられそうな味だった。
志郎と優馬は顔を見合わせて「美味しいね」という顔で微笑んだ。
その後、郁美はデザートのパウンドケーキを持ってきて、二人がそれを食べる間、隣のテーブルの椅子に腰掛けて、トレイを胸に抱いたまま、嬉しそうに眺めていた。
「全部美味しかったです、あ、美味しかった」
優馬が食べ終わって郁美の方に向いて言った。
「ありがとう。嬉しいわ」
それから志郎たちは雑談をしながらリラックスした時間を過ごした。
昨日の朝に港に入った大きな船のこと、テッペンカケタカというホトトギスの声で起こされること。その言葉たちを包むように、カフェのデッキにはふわりとした風が流れた。

日が傾き始めた頃、志郎は優馬を誘って家を出た。港を眺めながら百段以上ある古い階段を降りて、大通りを渡ると商店街に着く。
アーケードに入ると、魚屋、肉屋、豆腐屋、八百屋など、昔ながらの商店が並び、店主たちの活気ある声が響いている。
「お、志郎ちゃん、コロッケ揚げたてだよ!」
「あら、こんにちは志郎ちゃん」
「おう、志郎、ちゃんと野菜食ってるか?」
その店主たちの声に、志郎はひとつひとつ応えていく。
ゆっくり歩いて行くと、優馬が魚屋の前で足を止めた。奥から店主が出てきて声をかける。
「お、志郎ちゃん、良い鯖が入ったんだよ。ほら、見てよこの大きさ、この厚み!あぶらのりも抜群の干物だよ!」
大きな鯖の干物を持った魚屋に優馬が質問した。
「これ、金華鯖?」
「おお!その通りだよ、よく知ってるね」
「金華鯖って?」
知らない志郎が、ふたりに訊いた。
「宮城県の金華山沖で獲れる鯖だよ。鯖と言やぁ、関サバが有名だけどな、この金華鯖も負けてねぇ」
その店主の後に、優馬が続ける。
「金華山沖は、黒潮と親潮がぶつかるからプランクトンが豊富で、小魚も集まってくるんだ。その餌がたくさんあるところで育つ鯖だから大きくなるんだよ」
「おお、その通りだ。大したもんだ。名前は?」
「優馬、高原優馬」
「よし、じゃ、優馬くん。この鯖持ってけ!な、君に食べられれば、コイツも本望ってもんだ」
驚く優馬の代わりに、志郎は新聞紙に包まれた金華鯖を受け取った。ずしりと重い。
「ありがとう、おじさん。優馬くん、今夜はこれを焼いて晩ごはんにしよう」
「良いの?」
「良いんだよ。ここではみんなこんな調子さ」

翌朝は優馬も早く起きてきたので、庭の小さな家庭菜園に水を撒き、プチトマト、ピーマン、きゅうりを収穫した。それらとレタスでサラダにし、パンを焼いて、さらにベーコンエッグを作って朝食にした。
それから志郎は洗濯や掃除をし、何かしたいという優馬に風呂場の掃除を頼んだ。
昼になると郁美のカフェにランチに出かけ、午後はそれぞれの場所で読書や図鑑を見て過ごす。夕方になると商店街で買い物をして一日が暮れていく。
そうやって過ごす毎日が一週間続く頃には、優馬もすっかりここでの生活に慣れたようだった。

その日、ふたりが郁美のカフェに行くと、シトロエンのエンジンを止めるとすぐに郁美が駆け寄ってきた。
「ねぇ、ヤドカリの飼い方しらない?」
「え、ヤドカリがいるの?」
すぐに反応したのは優馬だった。
店の中に入ってみると、カウンターの上に水槽に入ったヤドカリがいた。
「昨日ね、砂浜に行ってみたら、この子が私の靴をツンツンってしたのよ。それが連れて行ってって言ってるように見えて、連れてきちゃった。でも、考えてみると、どうやって飼ったら良いかわかんないの」
郁美が眉毛をハの時にして、ちょっとおどけた感じで困った顔を見せる。
そう言われても、志郎も全くどうしたら良いのか分からない。
すると、じっと水槽を眺めていた優馬が口を開いた。
「これはオカヤドカリだね。砂にもぐるから、もっと砂をたくさん入れてあげて。それと、隠れる場所と、引越しするための貝殻。水飲み場も必要。餌はなんでも食べる。魚でも、野菜でも。湿気が必要だから、毎日霧吹きで水をかけてあげて」
そう一気に言う優馬に、志郎と郁美は驚いて、優馬を見たまま少し黙ってしまった。
「すごーい、優馬くん!ありがとう!大切に育てる」
「さすがだなぁ、毎日図鑑を見てるだけあるよ。それにしても詳しいね」
志郎が感心すると、優馬はにこやかに志郎を見上げ、
「パパが水族館で飼育員をしてたんだ」
と自慢げな顔で答えた。
「そうか、だから海の生き物が好きなのか」
「うん、でもね、ぼくが五歳の時に事故で死んじゃったんだ」
再び水槽をじっと眺めだした優馬の頭上で、志郎と郁美は顔を見合わせた。ふたりともなんと言って良いか分からなかった。
「優馬くん、カレー作ったんだけど食べてくれる?」
「カレー?食べたい!」
「フフフ〜、しかも2日目よ」
いつものデッキのテーブルについて、志郎と優馬は郁美を待った。
「どうぞ」と言って出されたのは、至極普通の家庭で作るカレーだったが、やはり味は何か秘密があるように美味しい。
「郁美さん、すごく美味しいよ」
いつものように隣のテーブルで、ふたりが食べる姿を眺める郁美に、優馬が満面の笑みで言った。
「ありがとう、優馬くん。なんで美味しいが分かる?」
優馬と志郎が顔を見合わせる。答えが出なそうな雰囲気に、郁美が話し出す。
「美味しいものを食べると元気になるでしょう?だから私は、たくさん元気になってもらえるように、美味しくなーれって祈りながら作ってるの。疲れた魂が元気になりますようにって」
「それで美味しくなるの?」
「美味しくなるわよ。気持ちはちゃんと伝わるの」
「そうかぁ、だから郁美さんの料理はみんな美味しいのか」
志郎が納得するように言った。
「そう、それが美味しさの秘密。あ、そういえば明日、ふたりで水族館に行って来たら?」
「僕もそう思ってたんだよ、郁美さん」
「え?水族館があるの?」
「あるよ、小さいけどね。行ってみるかい?」
「うん!」

翌日、開館と同時に志郎と優馬は水族館のゲートを潜った。
優馬はひとつひとつの水槽を丁寧に観察しながら、時々興奮した様子で志郎に話す。
「あ、チンアナゴだ!チンアナゴはね、顔が犬のちんに似てるからチンアナゴって言うんだよ」
「カクレクマノミはね、生まれた時は全部オスなんだよ」
「タラバガニはね、蟹じゃなくてヤドカリの仲間なんだよ」
ひとつの水槽を観察し終えると、待ちきれないという様子で次の水槽に急ぐ優馬。その後ろを志郎はゆっくりと歩いていく。
だいぶ元気になったように見えるが、まだなにか抱えているようにも見える。
「あ、イルカのショーが始まる時間だよ。急がないと!」
そう言って優馬が走り出した。
最前列で水をかぶりながら見るイルカのショーは迫力満点だった。
「イルカに触りたい人」というドルフィントレーナーの呼びかけに、元気よく返事をして手を上げる優馬。イルカの頭を撫で、頬にキスをされると目を瞑ったまま、弾けるような笑顔を見せた。それは、ここに来て一番の笑顔だった。
戻ってくると、嬉しそうな顔で優馬が言う。
「知ってる?イルカってね、片目だけ閉じて泳ぎながら寝るんだよ」
それからふたりは、売店で買ったソフトクリームを食べながら、ペンギンを眺めなた。ペンギンの動きはユーモラスで、ふたりはおかしな動きをするペンギンを見つけては教えあって笑った。
その笑い声が止むと、優馬が下を向いて話し出した。
「パパが死んじゃってから、2年くらいして、新しいお父さんと暮らすことになったんだ」
「新しいお父さん?ママは再婚したの?」
「うん」
優馬はまだ何か話そうとしていたが、上手く言葉が出てこないようだった。志郎は、じっと下を向いたまま苦しそうな顔をする優馬の肩を抱いて引き寄せた。
優馬の涙が、小さな靴の脇にポタポタと落ちる。
志郎は優馬の肩を撫でながら、何も言わずに優馬の気持ちが落ち着くのを待った。
しばらくして優馬が「ごめん」と言って、袖で涙を拭いながら笑顔を見せた。
「良いんだよ。聞いて欲しいことがあったらいつでも聞くよ。話せるようになったら話すと良いよ」
「ありがとう」
帰りる間際にお土産屋によると、優馬がイルカのブローチを眺めていた。それは弧を描いて跳ねるイルカの形をしていて、銀色だが光の加減で控えめに虹色に輝いている。
「欲しいの?」
「うん、郁美さんに似合うかと思って」
「良いね、喜ぶと思うよ」
そう言うと、志郎はそれをレジのスタッフに渡して、小さな紙袋に入れてもらった。

「わぁ!嬉しい!優馬くんありがとう!」
優馬が渡したイルカのブローチを見て、郁美がこれ以上ない笑顔を見せた。そしてエプロンの胸のあたりに付けて「どう?似合う?」と優馬に訊いた。
優馬はちょっと照れた笑顔でうなずいた。
照れ隠しなのか、優馬はイスから降りて、早足でカウンターのヤドカリを見に行った。
その姿を見ながら、志郎は昨日ペンギンを見ながら優馬が言ったことを、そっと郁美に伝えた。
「そう。辛かったのね。でもそれだけかな?」
「うん、他にもありそうだね」
優馬はデッキのテーブルに戻ってくると、
「この辺で、潮干狩りができるところってある?」
と、ふたりを交互に見ながら訊いた。
「あるよ」
「ホント?」
「潮干狩り?私も行きたーい」
「お店は?」
「明日は休みだから大丈夫!」

翌朝、カフェに迎えに行くと、郁美がバスケットを持って待っていた。
「ランチ作ったよ」
海沿いの道をのんびり車で走る。朝の光が波の上で跳ねる。
優馬が助手席のドアを全開にして海風を入れると、磯の香りが車内に広がった。
車は坂道を登り、登り切って下り坂に差し掛かると、目の前に遠浅の砂浜が広がっていた。もうすでに潮干狩りを始めている家族連れもいる。
「わぁ」
優馬がそう声を出して、顔を少し窓の外に出した。気持ちよさそうに目を細める優馬を見て、志郎と郁美は微笑んだ。
海に着くと、それぞれバケツと熊手を持って砂浜に降りた。
「あった!」
最初にアサリを見つけたのは郁美だった。
「郁美さん、アサリはまとまって住んでるから、その周りも探して!」
優馬が立ち上がって指示を出す。
「よし、僕も負けないぞ」
志郎も立ち上がってふたりに宣言して笑った。
「じゃ、競争ね!」
アサリはどんどん見つかり、日が高くなる頃には、3人のバケツはそれぞれいっぱいになった。
「そろそろお昼にしない?」
3人は防波堤の上に、優馬を真ん中にして並んだ。
郁美がバスケットを開けると、チーズやハムを挟んだクロワッサンに、玉子焼きや鳥の唐揚げが並んでいた。
「わぁ」
「美味しそうだね」
「もちろん美味しいわよ。さ、召し上がれ」
志郎と優馬は、クロワッサンサンドを食べながら、美味しいねと言うように顔を見合わせて頷いた。
「そうやって美味しそうに食べてもらうと、私も嬉しい。それに潮干狩りも楽しい」
「潮干狩りはね」
優馬が郁美を見上げながら言う。
「パパが死ぬ前に連れて行ってくれたんだ。ぼくは小さかったから、パパのことはあまり覚えてないけど、潮干狩りに行った時のことは良く覚えてる」
「楽しい思い出なのね」
「うん。パパはアサリだけじゃなくていろんな貝を教えてくれたんだよ。シオフキ、カガミガイ、細長いマテ貝とか」
遠浅の海は干潮に達したようで、朝より広くなった砂浜にはたくさんの家族連れが潮干狩りを楽しんでいる。
「私たちも家族だと思われてるかな?」
郁美が志郎を見ながら言った。
「え?僕がお父さん?」
「当たり前じゃない。優馬くんくらいの子供がいてもおかしくない歳でしょ?」
「まぉ、確かにそうだね」
志郎と郁美が顔を見合わせて笑っていると、間で俯いた優馬が、
「でも、ぼくは良い子じゃないから」
と呟いた。
志郎と郁美は、優馬の顔を覗き込むようにして言葉を待った。
「ぼくはいつも、お父さんに怒られてばっかりだから」
「お父さんって、新しいお父さん?」
志郎の問いに、優馬が黙って頷いた。
「ぼくはすぐに夢中になっちゃうから、おとうさんはいつもイライラしてるんだ。パパの図鑑もぜんぶ捨てられちゃった」
「だから図鑑を見るのが好きなのか」
優馬が頷いて、俯いたまま話し続ける。
「お父さんは、ぼくに野球をやらせたくてグローブを買ってくれたんだけど、ぼくはキャッチボールもうまくできなくて。だからまたお父さんをイライラさせちゃう。そうするとママが悲しい顔をする」
郁美がそっと優馬の背中に手を添える。
「ぼくは叩かれるのが怖いから、いつも頑張るんだけど、どうしてもできないんだ。みんなができることがぼくにはできないんだ」
「叩かれるの?」
志郎が訊いた。
「うん。でもぼくができないのが悪いから」
「そんなことないわよ。みんな得意なこともあれば苦手なこともある。優馬くんはヤドカリの飼い方とか、アサリの捕り方とかたくさん教えてくれたじゃない」
「ありがとう。でもね、ぼくのせいでママが笑わなくなっちゃったんだ。あんなにいつも笑ってたママが全然笑わなくなっちゃった。ぼくがお父さんをイライラさせなければ良いのに、ぼくはそれができないんだ。ダメなやつだって言われるんだ」
「お父さんに?」
「うん。お前みたいなダメなやつは大人になってもダメなままだって」
「ひどい…」
郁美が声を詰まらせる。
「パパに会いたい」
優馬の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「パパに会いたいよぅ、ううっ」
防波堤のコンクリートを、優馬の涙が黒く塗り替えていく。
郁美がたまらずに優馬を抱きしめると、その腕にしがみつくようにして、優馬は泣きじゃくった。
「パパに、パパに会いたいよう」
泣き止まない優馬の背中を、志郎はゆっくりと撫でる。
郁美も志郎も何も言うことはできなかった。何も言わなくて良いと思った。ただこうして気持ちを伝えれば、体温を通して優馬の魂に届く。ふたりはその時を待った。
どれくらいの時間が経っただろう。優馬が「ごめんなさい」と言って顔を上げた。
「謝る必要はないよ。何も悪いことなんてないんだから」
志郎がポンと軽く優馬の背中を叩く。郁美がもう一度、ギュッと優馬を抱きしめてから体を離し、明るい笑顔を見せて口を開いた。
「そうだ!お店に帰って、このアサリでクラムチャウダーを作ろう!」
志郎が3つのバケツを見ながら「こんなに?」と質問する。
「そう。大きなお鍋でたくさん作ろう!こういう時は、料理をして、美味しいものを食べるのが一番!」
その笑顔につられるように、ようやく優馬も笑顔を見せた。

郁美のカフェに戻ると、早速たくさんのアサリを洗って砂抜きのためにお湯につけた。
「お湯だと早いのよ。さて、今のうちにみんなで野菜を切るよ」
郁美はふたりを厨房に招き入れた。
優馬はピーラーでじゃがいもの皮を剥き、それを郁美が角切りにしていく。志郎は玉ねぎ担当だ。
「あら、志郎くん、泣いてる?」
玉ねぎが目に染みて、鼻をすすり上げた志郎をからかうように郁美が言う。
「泣いてないよ!」
「泣いてるじゃない。フフフ。泣くのは良いけど、鼻水たらさないでよね」
「たらさないよ。あ、でもちょっとタイム」
そう言うと志郎は厨房から出て涙を拭きに行った。その様子を見て、郁美と優馬は笑った。
大量の野菜とベーコンを切り終わる頃には、アサリの砂抜きも終わった。
「さてと。じゃ、いくわよ」
大きなアルミのフライパンにアサリを入れて火にかける。郁美が白ワインを入れると、ボワッと炎が立った。その様子を見て、志郎と優馬が「おお!」と揃えて声を上げ拍手をした。
「郁美さん、シェフみたい!」
驚いた顔のままで優馬が言った。
「これでも三つ星レストランで修行したシェフなのよ」
「本当に?」
志郎は初耳だった。
「さあね、どうかしら。フフフ」
郁美はフライパンに蓋をして、蒸し焼きにしながらはぐらかすように笑った。
アサリの殻が全て開くと、郁美がベーコンや野菜を炒めている間、志郎と優馬はアサリの身を殻から外していく。
大きな寸胴にアサリの身や野菜、牛乳などを加えて煮込む。
「さて、ここからが大事なポイント。優馬くん、わかる?」
「うん、美味しくなれって祈るんだよね」
「そう、正解!じゃ、優馬くん、美味しくなーれって祈りながらゆっくりかき混ぜて」
「わかった」
優馬が台に乗って、大きな木べらをゆっくり回す。
「美味しくなーれ、美味しくなーれ」
やがて、とろみのついたクラムチャウダーが出来上がった。郁美が味見をする。
「うん、よし!完成!」
「やったー!」
志郎と優馬は後ろでハイタッチ。パチンと良い音が厨房に響いた。
いつものデッキの席にそれぞれでクラムチャウダーの入ったスープカップを運んで、3人はテーブルを囲んだ。
「いただきます!」
「うん、美味しい!」
「美味しいね」
「アサリが新鮮だもんね、香りが良いわ」
3人はお互いの顔を見ながら笑顔で頷きあう。
「やっぱり、美味しいものを食べると笑顔になるわよね」
「うん。自分たちで作ったっていうのも良いのかも」
そう郁美の顔を見上げて言う優馬の笑顔は、屈託のない子供の笑顔そのものだった。
「優馬くん、おかわり持ってこようか」
志郎は空になった自分のスープカップを持ち、優馬に手を差し出した。
「ありがとう」
そう言って、優馬が志郎に自分のスープカップを渡す。
志郎がふたつのスープカップを持ってデッキに戻ると、そこには寂しそうにたたずむ郁美の後ろ姿だけがあった。
志郎は足を止めて、何があったかを全て悟り、再び前に進んでふたつのスープカップをテーブルに置いた。
「行っちゃった」
やっとという感じで郁美が声を絞り出し、唇を真一文字に結んだ。その唇がだんだんとへの字になっていき、目からつうっと涙が頬を伝った。
「行っちゃったんだね」
「でも良かったのよね、これで」
「うん、優馬くんの魂が元気になったってことだからね」
郁美はその志郎の言葉を聞き、一度大きく鼻をすすり上げてから、
「でも、慣れないわ、この瞬間はいつも」
と言いながら、エプロンで涙を拭い、胸につけたイルカのブローチを愛おしそうに撫でた。
「おつかれ」
そこに来栖が現れた。
「今、生まれ変わったってさ」
「そうですか、良かった」
志郎はそう言って、自分に確認するように2、3度頷いた。
「お、美味そうな匂いだね」
「美味そうじゃなくて、美味いのよ。食べる?」
郁美がもう一度エプロンで涙を拭ってから立ち上がった。
「おう、いただくよ」
来栖はそう言うと、優馬が座っていた椅子に腰をかけた。
「優馬くんの死因って何だったんですか?」
志郎が来栖に訊ねる。
「俺も知らねぇよ。いつも通り聞かされてないからな。まぁ、でもあの歳でここに来たんだ、辛い死に方だったんだろうよ」
「そうですよね。あの歳で魂が疲れて生まれ変われなくなるくらいですからね」
郁美が来栖の前にスープカップを置いて質問する。
「優馬くんのお父さんは?」
「死んだパパか?とっくに生まれ変わってるよ。魂は優馬くんを探してるから、そのうちどこかで会えるだろう。まぁ、会ったとしても、お互いそうとは分からないんだけどな」
「でも、仲良くなれますよね?」
「そうだろう。それが魂のつながりってもんだ」
その来栖の言葉を肯定するように、森に風が優しく流れる。
「志郎、ひとつ提案があるんだけどな」
「なんですか?」
「敬語はやめにしねぇか?」
「え?」
「お前、俺にだけ敬語じゃねぇか。敬語は使う必要ないって言ってんだよ。なんか、ヨソヨソしいじゃねぇか」
ちょっと照れを隠すように言う来栖の表情が、志郎にはなんだかおかしく感じられたので、少し笑いながらこう答えた。
「うん、わかったよ、来栖」
「そう、それで良い。いや、なんか違うな。呼び捨ては違うんじゃないか?」
そのちょっと慌てたような言い方に、志郎と郁美は笑った。
「それにしても美味いな、このクラムチャウダー」
「当たり前じゃない」
郁美はそう言うと、志郎に向かって続きを促すように微笑んだ。志郎は少し椅子に座り直してから来栖の顔を見ながら答えた。
「優馬くんの祈りがこもってるからね」


つづく

かもしれないし

つづかないかもしれない


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