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【短編】水槽のクラゲと線香花火

(4845文字)

丘を越えると日本海が見えた。
夏の終わりの青空を、珍しく穏やかな水面が映している。
クラゲの水族館に行ってみたいと言ったのは夏菜子だった。

山形県鶴岡市にある加茂水族館は、小さな水族館だが、展示しているクラゲの種類が世界一ということで有名になった。
コンパクトにまとめられた館内は、もちろん魚介類や海獣の展示もあるが、やはり見どころは色も形も様々なクラゲだ。
小さな水槽の中で漂うクラゲを見つめていると、現実感が失われてボウっとしてくる。
夏菜子もただじっとクラゲを見つめていたが、
「この子たちは、自分が水槽の中にいるって分かってるのかしら」
と、私に話しかけるでもなく、独り言のように呟いた。
ゆっくりと、ひとつずつ水槽を眺めて進んでいくと、いつの間にか円形の大水槽の前にいた。
水槽の高さは7〜8mはあるだろうか。
暗い空間に浮かび上がった、丸く青い水槽は、まるで望遠鏡の向こうに見える宇宙のようで、白いクラゲは折り重なる星々のように見える。
「写真撮ってもらおうよ」
「え、大丈夫なのか?」
夏菜子は私の問いかけには答えず、近くにいたスタッフの若い女性に声をかけて、自分のスマートフォンを渡した。
「はい、良いですかー。では撮りますね。3、2、1」
スタッフの女性が3と言ったときに、夏菜子は腕を絡めた。
スタッフからスマートフォンを受け取り、確認する。
私の腕にぶら下がるようにしがみついた夏菜子の柔らかな笑顔の隣で、私の笑顔は少し緊張しているように見えた。
それがおかしいと夏菜子は笑った。
夫に見られたら困るからと、夏菜子は2人の写真を撮りたがらなかった。

夏菜子に出会ったのは、市の外郭団体が主催する「歴史・街歩きの会」だ。
離婚して、休日の暇を持て余していた私は、何気なく眺めた市政だよりで、この会のイベントを見つけた。
歴史には興味があったし、歩くのも健康に良さそうだと参加してみた。
その会に、私より1ヶ月前に参加するようになったのが夏菜子だった。
男も女も60歳以上、最高齢は82歳という年齢層の中で、お互いに47歳と会の中では若く、同じ歳だったこともあって、私と夏菜子はすぐに打ち解けた。
会で街を歩く時も、自然と並んで歩き、お互いのことを話すようになった。
若くして結婚した夏菜子には、大学を卒業して就職した息子がいて、半年前に家を出たばかりだった。
「もう、寂しくてしょうがないの。夫といても会話なんてないし。あっても業務連絡」
「業務連絡って」
私はその表現がおかしくて笑った。
「谷本さんは?」
夏菜子が笑いもせずに、真面目な顔をして質問するので、私は正直に離婚したことや、高校生の娘が1人いること、家は妻に取られて狭いアパートで一人暮らしだということを話した。
「人生いろいろあるわね」
「あるよね、これだけ生きてくるとね」
この歳でできた女友達は心地よく、私は会のイベントを心待ちにするようになった。

会に入って3ヶ月後に懇親会があった。
居酒屋の宴会場に35名の会員全員が集まった。
顧問の栗原教授の挨拶で始まり、懇親会は時間が進むにつれて、他の客に遠慮のない大きさの笑い声が充満していった。
私はひとまわり以上歳の離れたお姉さんたちに囲まれていた。
「私たち、こうやって谷本さんと話したかったのよぅ」
「そうそう、やっぱり若い子と話したいわよねぇ」
そんなこと言いながら、お姉さんたちが入れ替わり立ち替わり、私のグラスにビールを注いでいく。
「いやいや、若いと言ったって47ですよ。もうすぐ初老ですよ」
「若いわよねぇ」
「そうそう、だってウチの息子と変わらないもの」
「今日は若返るわぁ」
彼女たちの笑い声が響く中で、私は夏菜子の方を見ていた。
夏菜子の隣には北山が座っていて、必要以上に顔を近づけて、しきりに話しかけている。
北山は60代後半。この会ではベテランで、解説役を務めることも多かったが、なぜか私に対する態度は冷たかった。
なるほど、嫉妬していたのかと合点がいった。
夏菜子の体が少しずつ北山とは反対側に傾いていくのを見ても、嫌がっているのは明らかだった。
私が助け舟になろうと席を立とうとしたその時、したたかに酔った北山が夏菜子の肩に手を回した。
「きゃ!何するんですか!」
夏菜子の叫び声が響いて、宴席が静まり返った。
すぐに会長、副会長が席を立ち、北山を外に連れ出した。
「大丈夫?」
夏菜子に声をかけると、微かに震えていた。
「帰る」
小さな、しかししっかりした声で夏菜子が言った。
私は幹事に声をかけ、夏菜子を送って行くと言って、2人で店を出た。
通りに出て、私がタクシーを止めようとすると、夏菜子がそれを制した。
「すぐ近くだから」
「え?家は南洋ニュータウンだよね?」
「ううん、今日はそこのビジネスホテル」
「え?」
すると夏菜子が悪戯っぽく笑いながら言った。
「家出中なの」
特に大きなケンカをしたわけではないという。
「なんか息子がいなくなってからギスギスして、息が詰まっちゃって。友達の家に泊まってくるって言って、今日で3日目」
私たちは酔いが回って少しふらつきながら歩いた。
そのたびに肩が触れる。
その一瞬で夏菜子の火照った体温を感じることができた。
「なんでもっと早く助けてくれなかったの」
「え?」
「ずっと見てたでしょう、北山さんに絡まれてるの」
「分かってたのか」
夏菜子が拗ねた顔で続ける。
「ずっと助けてって言ってたのよ、心の中で。聞こえなかった?」
「ごめん」
「許さない」
「どうしたら許してくれる?」
夏菜子が立ち止まった。そこは彼女が泊まっているホテルの前だった。
夏菜子は私に向き合い、私の両手を掴むと胸の高さに持ち上げて言った。
「部屋に来てくれるなら許してあげる」

クラゲの水族館を出ると、太陽は日本海に近づいて来てはいたが、まだ空は青いままで、海面に映る光が眩しい。
海沿いの道をのんびりとドライブしながら、鶴岡の街に入ると、目の前に鳥海山が見えた。
街を見下ろすように佇む立派な山容で、斜面にはまだ雪が残っている。
私たちはその鳥海山に見守られるようにして北へ向かう。
今日は秋田県との境にある、海の目の前にポツンと一軒だけ建っている「酒田屋」という民宿に宿を取った。
酒田市の市街地を出る前にコンビニに寄って、缶ビールを4本とつまみを買った。
国道から逸れた海沿いの道にある宿は、本当にポツンと佇んでいて、周りに民家や商店、自動販売機も何もなかった。
古いが綺麗に使い込まれた建物で、客室は全室日本海に向いている。
夕暮れまでまだ時間があったので、私たちは風呂に入ることにした。
大浴場と呼ぶには少々小さな風呂には、先客がひとりいた。
話をすると地元の方で、定年退職してから、1シーズンに一度の割合で、夫婦で泊まりに来ているという。
「昔はね、ここには他にも宿があったんですよ」
「こんなところにですか?」
「そう、ここから鳥海山に登ったんですよ」
「登山ですか」
「いやいや、参拝ですよ。信仰の山ですからね」
海抜0メートルのこの場所から、2000メートル以上の場所にある神社にお参りをしたという。
今は車で登山口まで行って、日帰りで登ることができる山になっているが、昔は何度も泊まって命懸けで登ったことだろう。
そんな会話を交わしながら、ゆっくり風呂に浸かり、部屋に戻ると浴衣姿の夏菜子が先に戻っていて、欄干にもたれながら、橙色に染まった海を眺めていた。
海は相変わらず凪いでいて、線香花火の玉のようになった太陽が、少しずつ近づいていた。
次第に空は上の方から濃い藍色に包まれていく。
水平線に、ひとつ、またひとつと漁火が灯る。
「何考えてたの?」
私は、冷蔵庫に入れておいたビールを取り出し、一本を夏菜子に渡しながら訊いた。
「私ね、あの水族館のクラゲみたいだなって思ってたの」
「どういうこと?」
「ずっとね、漂ってきた気がする。なんとなく人に影響されながら。とりあえず入れた短大に通って、就職した会社の先輩に結婚してくれって言われて結婚して」
「後悔してるの?」
「そういうことじゃなくて。母にこうしなさいって言われたらそうして、みんながそうするから真似して、夫についてこいって言われたからついていった感じ」
そこまで話して、夏菜子はビールのプルタブを開けてひと口飲んだ。
「こういうもんだと思って漂ってたら、そこが小さな水槽だって気がついちゃった。外があるんだって。あなたのせいよ」

私たちがこの関係になって半年が過ぎた。
会のイベント以外でも頻繁に会うようになり、お互いについて知るようになると、私はこの先の人生を夏菜子と生きていきたいと思うようになった。
息苦しいその場所から夏菜子を救い出したい。
ある日、私は情事が終わった後に、夏菜子の髪を撫でながら言った。
「一緒に暮らそう。一緒に生きていこう」
夏菜子は気持ちよさそうに閉じていた瞼を開け、少し悲しそうな顔で、
「ごめん、少し考える時間が欲しい」
と言った。
あれからそのことについては、まだ話していない。

太陽はいよいよ水面に近づいて、線香花火の玉になり、ぶよぶよとした感じで揺らめいている。
そしてその光が、水面にオレンジ色の道を作っている。
そこを歩けば太陽まで辿り着けるように。
そして玉の下が水面に着いた。
「ジュッて音がした感じがしない?」
私の方を向いてそう言った夏菜子の唇に、私は吸い寄せられるようにキスをした。

夕食を済ませると、私たちは缶ビールを持って砂浜に出た。
いつのまにか満月に近い月が高く上がっていて、照明もないのに砂浜は薄く明るかった。
国道から外れた道に車は通らず、ゆったりとした波の音だけが聞こえる。
遠くの漁火はさらに増えて、漁師の荒々しい怒号が聞こえてくるように感じた。
私たちは砂浜のはずれにあった太い流木に腰をかけた。
すると、夏菜子が「ジャーン」と言って浴衣の胸元から何かを取り出した。
それは線香花火だった。
宿のマッチで火をつける。
オレンジ色の玉が少しずつ大きくなり、身震いをしだすと、シャッシャッと音を鳴らしながら火花が飛び始める。
やがてそのスピードは早くなり、一気に火花を散らすと、玉はどんどん小くなり、火花も細く小くなり、最後は真っ黒になって終わる。
私たちは飽きもせずに、一本ずつ火をつけていった。
無言で線香花火を見つめていた。
気がつくと、夏菜子の頬に涙が伝っているのが見えた。
どうしたのかと思って声をかけるより先に、自分の線香花火を見つめながら、夏菜子が言った。
「ごめん、あなたとは一緒に生きていけない」
不思議とショックはなかった。そんな気がしていたからだ。
「夫を愛してはいないし、愛されてるとも感じられない。だけど、感謝はしてる。今まであの暮らしで作ってきたものや、関係を捨てることができないの」
そしてもう一度「ごめんなさい」と言う夏菜子の肩を私は抱き寄せた。
夏菜子はやがて大粒の涙を砂浜に落としながら、声を出して泣き出した。
「良いんだよ。本当は強引に引っ張り出したいけど、できないオレも悪い。ごめん」
私はしばらく夏菜子の髪を撫でていた。この手触りがたまらなく好きだった。
「次に生まれてくるときは、水槽じゃなくて海のクラゲになりたい」
私は最後の線香花火に火をつけた。
玉が丸く大きくなって身震いをし出したその時、風が吹いて、玉はスローモーションのように砂浜に落ちて見えなくなった。

それから私たちは歴史・街歩きの会を辞めた。
それからは会っていない。
あの日、夏菜子は私と生きて行かないという道を選んだ。
自分の道を自分で選んだ。だからきっと少しの覚悟はできて、もうクラゲのように漂うのをやめたと信じたい。
私は心の中に、夏菜子がいた場所をずっと眺めている。
コーヒーを淹れる時など、コーヒーの粉に吸い込まれていくお湯を眺めながら、その場所の穴の大きさを知る。
穴が埋まるのにはまだだいぶ時間がかかりそうだ。
恋愛が楽しいことばかりじゃないということを、この歳になるまですっかり忘れていた。
口にしたコーヒーはいつもより苦味が強かった。

虎吉さんの企画に参加させてもらいました。
季語は「線香花火」です。
線香花火というと、どうしても寂しく切ない夏の終わりですよね。

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