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【福島から】13年間、時が止まった小学校の中へ 

割引あり

13年間、立ち入りが許されず時が止まったままの小学校ーー。
そこには時が重なった重みと、今はなき人の営みの痕跡があった。

原発事故による帰還困難区域にあり、ずっと立ち入り禁止となっていた福島県大熊町の旧「熊町小学校」、旧「熊町幼稚園」、旧「熊町児童館」。
2011年の東日本差大震災と東京電力福島第一原発事故から初めて、2024年2月2日〜4日の3日間、当時の児童、園児に対して解放され私物の持ち出しの機会が与えられた。

この旧熊町小などは、原発事故の放射性物質汚染による帰還困難区域内にあるとともに、除染廃棄物を30年間保管する「中間貯蔵施設」の敷地内にもなっている。福島第一原発をぐるりと取り囲むような中間貯蔵施設は、当然放射線量も高い。
この敷地となっている場所は最初からそういう土地だったわけではない。原発事故が起こり、福島県内全域で放射性物質が降り注いだ土地や家屋の除染が行われ、その時に出た大量の汚染された土、物質などを置く場所が必要となった。それを保管する大きな場所が必要となり、いちばん再生から遠いとも考えられるこの場所に造られることになった。
そこにはもともと家があり、農地があり、公共施設もあったが、ほとんどが現在までに国に土地を売るか30年間貸す契約をした。簡単に言えば、国がこの土地を買い(借り)取り、放射性廃棄物の貯蔵場所にしたということだ。

現在の帰還困難区域内には学校は他に浪江町の旧津島小があるが、中間貯蔵施設内にあるのはこの旧熊町小だけだ。
少なくとも使用開始から30年間(2045年まで)は何かに活用したり復旧事業がなされる可能性はまずない。

大熊町概念図

しかしこういう状況の学校だからこそ、何も手をつけることができなかったからこそ、旧熊町小は震災当日のままの状態を今でも保っているという側面もある。

今回は、私が震災後に度々お世話になっていた大熊町民の木村紀夫さんに「同行」する形で、帰還困難区域の中へ、さらに旧熊町小へと入らせていただくことができ、3日間取材した。
木村さんは長女の舞雪さん(当時熊町小4)と次女の汐凪ちゃん(当時熊町小1)の家族なので、今回校舎に立ち入ることが許されている。
報道関係に取材の設定がされていたが、取材可能な時間が2月3日の2時間のみだったため、3日間なるべく多くの時間入るために木村さんへの同行をお願いした形になった。

今回このことを取り上げようと思ったのは、この旧熊町小が原発災害の遺構として保存してほしいという声がある中で、今後どうなるのか注目していることと、改めて存在の意義を考えたかったからだ。
13年の時間を重ねた学校、突然の別れから13年ぶりに訪れた当時の児童の様子と共に、この学校が持つ現在の存在意義、残すことの意味など、取材したことをもとに写真と共に書いていきたい。

旧熊町小学校
体育館入り口に生えてきた木
地震で散乱したままの靴

また今回の当日の様子は動画をメーンに出しています。動画はnoteご購入者様に公開しております。通常公開していません。

↑こちらは予告編の動画です。
**記事の最後に、本編動画のURLがあります

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