見出し画像

多胡と羊と鉱山と

群馬県高崎市に多胡碑という碑文がある。

多胡碑

奈良時代、和銅四年(711年)に上野国14番目の郡として多胡郡が建都されたことを記念して建てられた石碑。羊と言う渡来人?に多胡郡を任せると書かれている。多治比直人、石上尊、穂積親王、藤原尊(不比等)の名も刻まれている。

さて、この碑の謎に迫る。まず多胡である。多胡(たご)は田子とも当てられる。山部赤人の有名な歌に

田子の浦にうちいでてみれば白妙の ふじのたかねに雪はふりつつ

田子の浦、場所を特定しよう。静岡県の薩埵峠と一般に言われている。しかし、この辺り、日本海側の新潟県親不知に並ぶ崖の難所である。富士の高嶺をしみじみ眺める場所ではない。

では田子の浦とは何処か。富山県氷見に万葉集で多胡の浦と呼ばれた場所がある。ここは立山と富山湾が一望できる絶景スポット。近くに田子浦藤波神社がある。

山部赤人という歌人は、宮廷歌人として存在していたのではないか位しか資料は残されていない人物。じつはこの手の歌人がウヨウヨいる。柿本人麻呂も、猿丸大夫も同様の扱いである。

さて、以前郎女について考察した。男装して出廷していたのではないかと推測した。彼女達こそ、この謎の宮廷歌人だと思う。故に男性の職業としての正式な官位はない。

話を元に戻す。田子の浦からの景色は富士山ではなく、立山を読んだ歌だと考えている。「ふじ」は不尽とも書かれる。富士山という根拠はない。伊邪那岐の禊の回で考察したが富士山と立山は諏訪湖を挟んで対となる。この国の国作りに関係する。

田子は多胡とも書かれている。多胡碑とも関係してくる。多胡郡を支配するのは「羊」

渡来人「羊」

奈良時代に活躍する僧侶、行基。

行基(668〜749年)   父は高志才智、母は蜂田古爾比売とされる。父の高志才智は羊とも言われる。高志氏は王仁を祖とする百済系渡来氏族とされる。一方で越後国頸城郡郡司を世襲した高志氏がいる。別系統と考えられているが、恐らく根は一つ。高志は高志国。その分家が河内国に行った。物部守屋が弓削氏を河内国に作ったのと同じである。高市も古市も高志から転じた地名だろう。

羊が出てきた。蜂も出てくる。蜂については以前考察した。羊が示すもの。

動物の羊ではない。おそらく、三と丫(ア)である。

三は数字の三であるが、参とも書ける。参は星の名である。商星(サソリ座の三ツ星)と参星(オリオン座の三ツ星)を指す。丫はア、ふたまた、あげまきと読み、少女の髪型みづら、つのがみをいう。また、ふたまたを指す。つまり東西(オリオンと蠍)の分岐点。それが「羊」。オリオンと蠍の三ツ星はそれぞれ東と西の方角を示す重要な星。どこが東西の中心地か?

東西交易ーシルクロード、もしくは金の道と呼ばれる。その中心地は西域。羊は西域の人を指す。

西遊記の三蔵法師モデル、玄奘三蔵は大唐西域記を記した。この玄奘に師事したのが行基の師の道昭である。この道昭は晩年は各地で土木事業を行なっている。行基もまた橋建設など土木事業を積極的に行なった。何故、僧侶が土木事業を行なったのだろう。慈善事業だとしてもその資金源は何か?そう、資金源。インフラ整備には莫大な費用がかかるのだ。国家の依頼で行われていない事を踏まえると、この土木事業そのものに資金調達の側面があった。鉱山発掘と運搬である。全国の山々の開山は修験僧により行われた。霊山だとかは後付けに過ぎない。目的は、鉱物資源。この土木技術のノウハウを持っていたのが羊ー西域の人だった。

多胡碑に戻る。名を連ねる人々に注目したい。多治比真人、石上尊、藤原不比等、穂積親王。彼らを結びつける女性がいる。

大伴坂上郎女

穂積親王の妻とされる。穂積親王は不比等の姪の但馬皇女との密通疑惑がある。但馬皇女は高市皇子の妻ともされる。高市皇子と言えば十市皇女との恋が有名だろう。

但馬皇女は天武天皇と藤原鎌足の娘の氷上娘(不比等の姉)の子。氷上娘は鏡王女と鎌足の子。鏡王女は額田王の事だと推測される。鎌足は天智天皇から安見児を賜る。一般人には手が届かない采女の安見児をもらう。この安見児こそ、額田王。近江野洲の巫女である。

氷上娘は鎌足の子とされるが、おそらくは十市皇女。どちらも赤穂に葬られている。赤穂は別人になるための経由地になっているようだ。但馬皇女は氷上娘の娘ではなく本人だろう。そして、大伴坂上郎女である。十市皇女と氷上娘と但馬皇女と大伴坂上郎女は同一人物。大伴家持母は丹比郎女で多治比家と繋がりを持つ。おそらく丹比郎女も大伴坂上郎女本人。ややこしい話だが、とにかく名前を変えて何度も登場する。

そして、大伴坂上郎女こそ柿本人麻呂であると思う。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?