東西南北ー玄武考

東西南北の概念が成立した当初の四神は北の玄武、東の青龍、南の朱雀、西の白虎である。これらの四神がもつ特徴から、概念成立時の東西南北がどこであったかを推測する。

漢字の起源は今のところ殷の甲骨文に遡り、紀元前1700年頃と言われる。
しかし、その整理された文字体系からそれ以前から存在していたことが予測されている。
そして字形成立時、すでに四霊神の観念を胚胎していたようだ。つまり東西南北の四神の概念は殷より古い。漢字が成立する前の人々は、自然と共に生きる自然の観察者であったろう。観念ではなく、あるがままの自然を表現しようとしたはずだ。

玄武以外には明確な霊獣のモチーフがある。また霊力を象徴する冠飾を付けている。
ただ、玄武は明らかではない。後世で玄武は脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれる事が多くなった。

さて、玄武の本来表記は玄冥と言うそうだが、玄ダ(ワニという漢字)とも書かれる。中国では鰐は東南アジア生息のイリエワニを指し、ダは揚子江ワニを指す。


玄は、黒く染めた糸を指し、黒を意味する。この黒は薫染の法により赤黄よりして次第に紅赤の度を加え六入れして玄となる。赤から黒が生まれる。
冥は、幎冒(べきぼう)という死者の面を覆う布の形
この幎目には黒い布を用い、裏を赤くする
死霊を隔離するためその面を覆った。

黒についてだが、黒い顔料は存在するが、黒い染料は厳密には存在しないとされる。
墨染めは松煙煤を用い、何度も染めを繰り返し黒に近づけていく。
冥の説文の説明は、16日にして月欠け冥しとされ、16夜の月が暗いとするのは謎解きのような解釈であると白川静先生は述べている。

もしかしたら、染色16日目にようやく色付き(月)が掛け合わさり黒くなるのではないだろうか

玄武の武は戈(ほこ)を持ち前進する様を指す。

冥から武に変化した大きな理由があったのだろう。
死者の葬いから、軍事的な意味合いに北の位置付けが変わる。

亀と蛇のモチーフは亀の長寿と蛇の生殖繁栄のイメージの掛け合わせと言われ、死者の再生復活を願ったと考えられた。
また甲羅をト占に使っており呪術的意味も深いと言うが、果たしてそうであろうか。

そもそも亀は温帯を生息域にしており、北の生き物ではない。
北でなく、南にその役割が与えられる方が妥当だ。

自然と共に暮らしていた人々がその事を知らぬはずはなく、故に東西南北の概念が生まれた時の中心はかなり南にあると思う。ゆえに、玄ダ(ワニ)である。
ダは鰐でなく、揚子江ワニをさしている。
つまり、北は揚子江流域に相当しているのだ。このワニは冬眠するため冬に姿を消す。

夏王朝の始祖は母が水遊び中に玄鳥の卵を飲み込んで生まれる。玄鳥はツバメ、渡り鳥。渡りの民族。
亀もまた回遊する。渡りの人の象徴である。
治水に成功した禹王。

東は青龍であるが、龍は頭に辛字形の冠飾をつけた蛇身の獣の形。
蛇は神話に度々登場し、水と関連付けられる。
琉求は隋書(656年)が初出だが、中国側からの呼び名でいつからそう呼ばれていたかは不明。
琉は、瑠璃である。求は呪霊をもつ獣の形。
獣は野蛮人の比喩と考えると、青龍は琉球周辺に住む人々と推測する。

蛇に例えられる理由は、おそらく歩行障害を引き起こすHTLV1ウイルスが関与している。昔から九州地方に多いとされる疾病である。遺伝はしないが、母乳や性交により(男から女へ)感染する。感染した人々は歩く事が困難となれば、這いずる。これが蛇のモチーフである。
夏の禹王も足を引きずって歩いたそうでこれを禹歩という。
蛇は治水技術に長けていた。
おそらく数学、度量衡と深く関わる。
計測技術を持っていた。計算技術。縄目を使ったのではないかと思う。
だから、文明の発展に貢献した。
つまり亀と蛇は渡りの民族と治水技術を指している。


東西南北の概念成立時の中心は、中国南部の珠江(香港が河口)。稲のゲノム解析からこの流域が稲作起源地とされる。
稲作により人類の生活が変わった。
平等から支配の時代へと変わった。国家の萌芽。

もともと古代の人々は非常にリアリストであり、見たままの現実を表現したと思う。
それが文明の発展とともに頭でっかちの階層を生み出し、イメージ先行の概念になっていったのではなかろうか。
時代と共に、中心が珠江から北へ移り、北はさらに北を指すようになった。ワニから冥へ、冥から武へ。

揚子江から夏王朝、呪術国家殷、さらに中国北部の騎馬民族これが北方玄武の変遷の過程だと思う。

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