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ビニール傘 担当:ヤナイユキコ

時が経ちすぎたのもあって、
未だにあれは現実に起きたことなのか、
それとも妄想の類いだったのか、
曖昧な記憶がある。

私ひとりでは到底入る機会もない、
仄暗いラウンジバーだった。
鼈甲色にぼんやり灯る照明は、
近距離でしか表情が読み取れないほどに心許ない。
あまり周囲に顔を見られたくない人たちにとっては都合のいい明るさなのだろう。
お忍び向き、ひと言で言えば、そんな店だった。

好きになるのは初めて会った時に
すでに決まっている気がするのだ。

名刺を渡したその時、
声を聞いたその時、
目が合ったその時、
魅力的な人だなと思った。
その人と近い未来に笑い合う、
そんな予感を感じる出会いだった。

料理には人柄が表れる。
彼は大胆でシンプルな料理をつくっているように見えて、
肉の焼き加減やソースの塩梅になると緻密で繊細だった。
大らかでフランクで周りにたくさん人が寄ってくるのに、
一匹狼を好むような側面を感じるのも、もっと彼を知りたい気持ちにさせた。

そんな彼の料理は記憶に残って心を打つし、ただ彼に会いたいと思って訪れる人もたくさんいたはずだ。

物理的な距離が縮まるまでにあまり時間はかからなかった。
まだLINEなんてなかったか、まったく普及していなかった時代。
特別な人からの着信音だけ変えてみたり、
メールセンターに問い合わせて、好きな人からのメールを待ち侘びる時代。
既読か未読かどうかもわからない時代。
そうそう、私は当時ワンセグ携帯だったもの。よく覚えてる。

商品か何かを渡す口実で、終わりかけの彼の店に顔を出して軽い食事をとらせてもらう。

「もう少し飲んで帰る?」

「はい」しか言えない。
「はい」しか出てこない。

初めて会った時から
この人を好きになりたかったんだと思ったし、
私を好きになって欲しかった。
私はもうその人が好きだった。
きっとそれが、表情や声や仕草から伝わってしまっていた。
あなたともっと一緒にいたい気持ちが、漏れ出してしまっていた。

店を出ると小雨が降り出していて、
彼と1本のビニール傘を差して歩いた。
いつかのお客の忘れ物のようだった。
街は暗く物静かで、
でも寒さは感じなくて、
夏はもう目の前だとわかる。
彼はすぐにタクシーを捕まえた。
並んで歩く時間はすごく、すごく短い。

連れていかれたその仄暗いラウンジで彼は
マッカランのロックを傾け、
私は何を頼んだのか、それはまったく覚えてない。

二杯目が空になる頃だったか、
少し眠くなってきたタイミングだったか、
「そろそろ出ようか」と彼が言う。
と言ってももう電車はないし、
朝まで飲むなんてこともなさそうだ。

「うちで飲み直す?」

浮かれていたんだと思う。
ふたりきり、時間と秘密を共有していることに。私は大人に見られたかったんだ。一周回って、同じ干支のあなたに。

店を出ると雨は本降りになっていた。
彼は入口の傘立てに目をやる。

そこには似たようなビニール傘が何本もあり、
自分たちの差してきたものがどれだかもよく分からない。彼はたぶん、その中でいちばん新しそうなビニール傘を選んで広げた。

「行こうか」

視線を上げると、背の高い彼の横顔の向こうに雨粒のかたちがはっきり見えた。無色のはずのビニールが色褪せた藍色にくっきりと染まって見える。
それはこのビニール傘が、ここへ来る前よりも明らかに綺麗で透明で、別の誰かのものだということを物語っていた。

「東京の夜空って、今いたお店より明るいんですね」

間違えて持って行かれても、気付かれも気にもされない。
名前も目印もつけてもらえない。
ただその時降っている雨が凌げればいいのだ。
代わりは、いくらでもある。

少し後ろめたい気持ちで、傘立てのほうを振り返る。なんだか落ちつかない私を抱き寄せ、エスカレーターを降りながら彼は私にキスをした。キスの時間もすごく、すごく短い。

あの日の私は、そこにないみたいに透き通ったビニール傘だったのに、
幾月かを経れば、傘立ての中で選ばれなかった置き去りの傘になった。
ずっとずっと前のことなのに、
その間にいくつか恋愛もしたのに、
今でも向こうが見えないくらいに使い込んだビニール傘を見ると不安で切なくなるのは、
あの日の夜を、あなたのことを思い出してしまうからかもしれない。もうあなたを好きになることはないけれど。

いっそ、片思いが強すぎて見た夢や妄想の記憶、ということにしてしまいたいくらい、短くて淡い、でも忘れられない恋だった。

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