見出し画像

不幸な女が駆け上った石段

あるとき、ひとりの女性がこんなことを教えてくれた。

ある年の2月、鎌倉散策をしている折、ひっそりした寂しい公園のベンチに腰かけていると、いつの間にか隣に座っていた女性がやにわに話してくれたことである。

北鎌倉駅にほど近い、いわゆる「駆け込み寺」として有名な東慶寺は、いまでは円覚寺の管轄におかれている男僧寺なんです。でもかつては縁切寺、松ヶ丘御所などと言われた尼寺で、ある古い書物には頼朝の叔母美濃局みののつぼねの創建とありますが、一般には北条七代執権時宗の夫人覚山尼かくさんにが建てたといわれています。この人は縁切寺法を制定したと伝わっています。男女平等、男女同権といわれて久しい今日、でもこれまで中世から近代封建社会にかけて女性がどれほど男の非道に苦しめられてきたか、お若いあなたはあまりご存じないかもしれません。この縁切寺法によって、不幸不遇の女性を救済し歴史に多大な社会奉仕をしたことはもっと評価されていいと思います。といいますのも、一度結婚した女性は、夫からどんなに酷い目にあわされても別れることができなかった時代に、女性たちは藁にすがる思いでこの東慶寺に駆け込み、まさに駆け込み寺ですね、3年間修業すると離縁できるという素晴らしいものだったからです。寺の門前には守衛を兼ねた役所が設けられ、男はここに呼び出されてはいまでいう事情聴取をされたのち、離縁承諾の証文を書かされたといいます。この縁切寺法は明治時代まで続いたとのこと、これによって救われた女性はいったいどれだけの数になるでしょうね。日本女性史の暗闇に一石ならぬ一条の光を灯したこの功績は賞賛しきれないほどです。その昔、助けを求める多くの女性が身も心も忘れ、髪を振り乱して裸足のまま駆け上った東慶寺の石段は、現在では苦もなさげな女性たちが笑顔を振りまきながら上り下りしています。松ヶ丘の中腹に眠る覚山尼は、あるいは安らかにしかとこの様子を眺めているかもしれません。

この話に驚きつつも、かつてある女性文学賞の授賞式が東慶寺で行われていたことを思い出したが、さらに歴々の受賞者は錚々たる女性作家たちだったと思ったが、そのことにどこか納得がいくも、この突然の出来事に面食らったままうまく言葉を継ぐことができなかった。だいぶ年配のきれいな白髪を束ねたこの女性は「それでは、ごきげんよう」と言ってスッと去って行った。どこかに消えてしまいそうな後ろ姿だった。

縁切りなど思いも寄らず駆け込む必要がないとはいえ、一度その石段を上り、折々の花を愛でに東慶寺に伺おうかと思っていたが、この歴史小史を聞いたからには、そこには男性の目には見えない長い時間の糸によってめぐらされた結界が張られているように思え、そのとき以来今日まで、私は一度も訪ねていない。

愁訴なくもこうして女性のさだめを偲ばせる東慶寺では1月2月は梅が匂い、4月の末には珍しい黄色い欝金桜がおぼろに咲き、潔癖な女性を思わせる花菖蒲は、清潔な艶姿を見せるという。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?