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死への静かな眼差し「城の崎にて」

10代半ばに読んだときは、静かで淡々とした不思議な文章だなぁぐらいにしか思わなかった。数十年を経たいま、繰り返し読んでいると、まったく飽きることなく、読めば読むほど情趣や滋味がわいてくる。文庫でたった7ページ、直哉の代表作「城の崎にて」である。

山手線にはねられて大けがを負うも命だけは拾い、その療養にと城崎温泉へ向かった作者は、そこで3つの死を目撃する。せわしなく働く蜂の仲間たちのあいだに、ポツネンと動かぬ1匹の蜂の死。円山川の石垣を這い上がろうともがく、魚串が喉を貫通した、死が決定づけられた1匹の鼠。そして、自ら投げた石が偶然にも当たり、死を招いてしまった1匹の蠑螈いもり。これら死の描写は透徹明澄、精密なカメラのごとく具体的で、その情景は写真をみるかのように目の前にはっきりと現われ、直哉の可視的描写力にいつのまにか引き込まれてしまう。

それにたいして、死を免れて生きている作者は、3つの死を命限りある当然のこととして肯定もしなければ、否定したり抵抗したりすることもない。生きている自分を確認するも決して驕慢になることもない。ただただ、静かだった、淋しかった、とある。生きている事と死んでしまっている事と、それは両極ではなく、それほどに差はないような気がしたと述べている。人は決して死を体験することはできない以上、生の側から死を見つめると、それは対岸対極のように思えるが、しかしここでは生と死との隔たりはなく、常に隣り合わせのようである。

幸いにも自分はこれまで死に直面したことも、死を間近に目撃したこともない。人並みに生活し、特に困ることなく日々を送っていると、「自分だけは死なない」と、根拠もなく思ってしまう。が、作家の正確無比なレンズを通して3つの死をありありと思い浮かべると、明日は我が身、死は決して遠い世界の出来事ではなく、すぐ足元に転がりこんできそうな気がした。静かで、淋しい、絶対的な死、がである。若い頃に作品をよく理解できなかったのは、死を無縁に考えていたためだろう。年齢を重ねたいまは、少し違う。

生と死への作者の静謐な眼差しは、作中のある一節に象徴的に書かれているように思う。

物が総て青白く、空気の肌触りも冷々として、物静かさが却って何となく自分をそわそわさせた。大きな桑の木が道傍にある。…或一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ、同じリズムで動いている。風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラヒラヒラヒラとせわしく動くのが見えた。自分は不思議に思った。多少怖い気もした。然し好奇心もあった。自分は下へいってそれを暫く見上げていた。すると風が吹いて来た。そうしたらその動く葉は動かなくなった。原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。

突然風が吹き、ピタリと動かなくなった一枚の桑の葉。再読を重ねたいま、死が少し身近に感じられる。


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