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貴種狩り、無惨な小さな死


都の大路小路の辻々に立てられた高札には、平家一門の子弟の密告の由、過分な恩賞賜る旨が告げられていた。恩賞欲しさに密告者は絶えず、平門とは縁のない幼きものまでが問答無用に捕われては斬首された。1185年3月の春、平家が壇ノ浦に沈んだその年の真冬のことである。

一条万里小路を歩いていたある高僧は、佩刀はいとうした数多の源氏武士が喋々と門前を固めているのを目にした。もしや平孫貴種残党狩りかと足を止めるや、帯刀した屈強な武士が年の頃6歳ほどの男児を担いで屋敷から荒々しく出てくる。桐竹に鳳凰の文を織った小袖を着たこの男児は、人並みならぬ美しい顔だったと、高僧はのちに記した。

武士らはそのまま一条大路を西へ足早に駆け抜けていった。門からは悲鳴とも叫喚ともつかぬ絹を裂くような叫びが聞こえ、乳母とおぼしき若い女性が裸足のまま武士らの跡を追い縋った。さらにその後、母と思われる二十歳過ぎの美しい女性が隠すべき顔も隠さず、ふらふらと歩み出てきてはそのまま気絶してしまった。貴種狩りだと確信した高僧は、武士と乳母の跡を追ったが、そこでは凄惨極まる悲劇が起こっていたと、高僧は語った。

蓮台野の墓地の奥に待ち構えるは代官らしき居丈高の人物。武士らは男児を担ぎ下ろすと、言葉も会釈もなく膝の下に押さえ込み、有無を言わせず頸を刎ねた。一瞬の出来事だったと、辛くも立ち会った高僧は記し、その場で手を合わせ経を読経するほかなかったという。小さな骸と首はそのまま放置された。

まもなく現場についた乳母は亡骸を抱えあげ、母は首を膝の上におき、抱きかかえるようにおめき泣いていたと、高僧は語る。

のち、この高僧の伝手で出家した母は、供養をすませ後生を弔ったといわれるが、わが子の首と普段大切にしていた玩具の小車を並べては、気が触れんばかりであり、一方乳母のほうは衝撃のあまり、翌日悶絶死したと伝わっている。やがて母親は首と小車を懐に入れ、行方をくらまし消息を絶った。

伝え聞くところによると、4年前に焼討された南都東大寺と興福寺の焼け跡を拝み回り、襤褸らんる乞食の恰好で7日7晩絶食したのち、難波の海にひとり漕ぎ出し、西方に向かって念仏を唱え終えると、海中に身を沈めた。わが子の首と形見の小車を携えたままだったという。

それから数年経って判明したことには、この男児は三位中将重衡さんみちゅうじょうしげひらの子、母親は八条院に仕えていた内裏だいり女房、左衛門佐さえもんのすけであり、父、重衡は南都焼き討ちのかどで斬首された平家随一の公達きんだちであった。

この平家の貴種狩りを命じたのは「腹の中をあけて見ん」とばかりに鉄槌をふるう大閻魔のごとき爛々たる頼朝であり、その双眼の手先たる都の代官、墓地にて男児を斬った居丈高は、北条時政その人であったと、この無惨きわまる死の目撃者だった高僧はかく伝えた。

この冬、平家子孫ともども、一門とはゆかりない、色白眉目秀麗な罪なき男児が多く失われた。その数、数十人とも数百人とも伝わっている。



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