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振り返る義仲、その最期にみせた人間の真姿

「心も言葉もおよばれぬ」ほどの罪業を重ねた入道相国しょうこく清盛を裁断した「平家物語」には、その清盛を第一級として、未知の運命に抗う数々の強者が説話を残している。一方では、宗盛むねもりや小松家維盛これもり通盛みちもり、あるいは小督こごう妓王ぎおうや横笛、そして奇瑞きずいの建礼門院など、強者のなかにあって運命から退くいわば弱者も登場する。これら弱者は強者の罪を包み償う、救済の役割を担っている。それらには多くの頁が費やされ、ときに重々しくときに文飾的美文で語られているが、しかしなぜ物語はそうした弱者にそれほどに照明を当てたのか。それは悪業の久しい罪滅ぼしだったからだろうか。

物語は弱者において人間の真の姿を認めようとする。権力、武力、経済基盤、身内親族など一切の力を奪われたとき、人はどのように振舞うのか。方途尽き丸裸になったとき、人間がなお人間であるとはどういうことか。その姿は言い知れぬ驚嘆でもって、わたしたちの心を大きく揺すぶる。

ひとつ義仲を例にとってみたい。治承四年(1180年)、高倉宮以仁王もちひとおう令旨りょうじに援軍として挙兵した義仲は、翌年横田河原の勝利を出始に北陸道に勢力を広げる。討伐の平家軍を倶利伽羅くりから峠に破る快進撃で、いざ上洛を目指し進軍する。入京するやその武力専制は不評を買い、院と対立するも法住寺合戦で勝利する。物語はそうして剛毅な義仲を追い続け、筆に動揺を見せない。芭蕉や芥川が愛し、またわたしたちもよく知る華麗な風雲児、義仲である。

しかし敢闘闘魂のそうした義仲に胸を打たれるのは、最期のある一瞬の振る舞いである。頼朝鎌倉方の圧力に屈した義仲は自らの死を自覚し、宇治川に敗れたのち粟津に逃れるが、一人奮闘する今井兼平をあとに深田にはまってしまう。鎧重く、続く者もなく、無力窮まったそのとき、義仲は兼平の行方をほとんど無意識に振り返った、その瞬間である。

「木曾殿はただ一騎粟津の松原へ懸け給ふ。…入逢いりあいばかりの事なるに、薄氷は張りたりけり。沢田ふかたありとも知らずして、馬をざっと打ち入れたれば、馬の首も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てどもはたらかず。木曾殿、今井が行末の覚束なさに、振り仰ぎ給へる内甲うちかぶとを、…」(葉子十行本ようしじゅうぎょうぼん、巻第九「木曾最後」より)

崩壊する運命の傾斜を滑り落ち、生死の危うい稜線上に立った義仲のこの咄嗟の行動には、(今井への気遣いと思いがあったかもしれないが)何らの意図も意識もなかったのではあるまいか。あるいは死の直前に見せた生への本能が、ここに表れたのではなかったか。そして振り向いたその刹那の顔は、窮地の人間だけがのぞかせる真の姿といえないだろうか。私は義仲のこの振り返りに悲しみを突き破る、慄然とした感動を覚えずにはいられない。

軍記である「平家」は、確かに強者の群像が様々に象られている。歴史とは、そうした強者のものであることも確かだろう。現代から過去を振り返るとき、わたしたちはとりわけそうした勝者を賞賛しがちである。しかしそれでも「平家」は「歴史文学」である。弱き者に心を寄せ、滅亡消尽の側から歴史に向かっていった古典文学である。ときにその説話のなかに、ときに虚構のなかには、決して礼賛されず、また多くを継承しなかった弱きものたちが姿を現す。その真の姿は、生への本能的祈りのような小さな大遺産にも見え、感動のうちに記憶と心に大切にとどめておきたい。

今井を振り返った直後、義仲は石田次郎為久が放った一矢に射られ、馬の首にうつ伏したところを、石田の郎等ろうどう二人によって首を刎ねられたと物語は記し、今日に伝わっている。


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