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【2023年ver.】私の詩の書き方

去年ぶりに公募へ詩を送った。
そんな日を記念して、私の場合の詩のつくりかた(2023年ver.)を載せておこうかと思う。(参考にはならないと思う。)

※詩の作り方はあくまでも私の場合という話なので、これを絶対とは勿論言わない。どの詩を好むのかも個人的な話である。

※上記を留意の上、以下の記事をお読み頂くようお願いします。


今回は2023年金澤詩人賞へ初めて応募した。
この公募知ったのが締め切り(11/30)の15日ぐらい前…(遅い)
創作に復帰したのだから自分の書けるものをどんどん出していこう!いけいけどんどん!の気持ちで送ることにした。

結果的に、
10作ぐらい書いて、そのうちの3作応募。
今回自分の納得出来るものが3作だった。
残り7作は、さらに寝かせた方がいいものと、無しにしたものと様々。

時間があればもっと書けたかと言われれば微妙なところで、季節による心象の変化を鑑みると、私の場合は締め切りが近くなれば書くものも厳選されて、結局何作書こうと、テーマは絞られて作品数は少なくなっていたと思う。

何を書くのでもそうだけど、先ずは浮かぶものをなんでもかんでも書き取って量産する。
詩の場合は、特定のワードから世界が生まれるか、世界が視えて特定のワードが生まれるか、それぞれのパターンがある。

私の場合の「◯◯について書きたい」というのは、散文で行うもので、詩は「自然発生」するものである。

文章なら大抵のテーマに対応出来るが、詩は「書けるものしか書けない」。そして私が読者として好きな詩も、そういった叙情詩だ。

そして、私の詩には一切の大義が無い。

さて、私の詩の作り方については、これまで色々と変化してきた。去年、創作から離れる前までは、言葉の「鮮度」に重きを置いて、即興で浮かぶものをひたすらにTwitter・(現・X)等へ投稿していた。

過去作を眺めていると、そういう傾向が自分で見えてくる、が、心象へ詩の表現が追いついているかが疑問になる作品も多々ある。

今は「書いては寝かす、書いては寝かす」を繰り返している。これが私の推敲だ。散文と違って、1日で何度も直すものではない。寝かせなければ、頭の中で作る詩になる。頭で書くのはやはり散文であって、詩は感覚と言おうか、この言い方はむず痒いが、魂で書くものだ。だからなのか、萩原朔太郎の詩への向かい方が一番共鳴出来る。

私の場合、頭で書くなら詩で無くてもいいという話になる。勿論言葉の配置、韻律、そういうのは考えながら書くという部分になるのだろうけれど、核となる部分は頭で造り上げるものでは無い。

大体寝起きか、寝る前か、読み直して、何度も線を引いて表現を変える。それから再び書き起こす。それでも自分で「なんか気持ち悪いな」という違和感の部分があれば全部削るか、表現を変える。その世界の哀れな事象そのものに身を投じて、風景を眺めてみる。(大凡、景気のいい詩を書かないからこうなる)

最近は躊躇なく削ることが多い。冗長と表現の境目が自分なりにあるけれど、全てが感覚的なものだから、それは詩を書く人によって様々であると思う。こうだな〜と思う表現があれば足すし、これがあるから形が崩れると思う表現があれば削る。

紙の上に書いたものを、PCに打ち込む時も変わる部分もある。それを印刷して読んで、また変えるところもある。そうして完成したものを公募に出す。

この「寝かせる」作業がかなり増えたと思う。
それなら一生推敲は終わらないのでは無いかとも思われるだろう。それは確かにその通りである。
詩というのはその時々で心象の変化に巻き込まれるものだから、寝かす程に表現はきっと変わる。
だが、新鮮な核が失われていけば、それはもう違う詩になるので、そこの線引きを自分でして、その後また直したくなっても数ヶ月も経っていれば、もう手を加えないか、別の詩を書くかという話になってくる。

…と、色々と書いたが、読み手にとって駄作と思われたらその人の中では勿論ずっと駄作であることに変わりはない。

一方、私が書いたものを好きになってくれる人がいるのなら、それは私にとっていいものを書いたということになる。

文芸に限った話ではないが、芸術分野とは大凡の基準が曖昧であり、私は正解の無い道が苦手なので、もうやめようと何度も思った。

けれども諦めきれずに書いている。
それは好きだからだ。

精神がボロボロになって、何もかもうまくいかなくなって、猜疑心でいっぱいになって、人に感謝出来ない悲しい人間にまで落ちたけれど、それでも浮上するきっかけは、いつだって詩であり文芸だった。

まだ書けるなら、やめ時では無いということだ。
書くことが無くなった時、きっとエンドロールが見える筈。

自分で自分に御託を並べるぐらいなら、「全部詩にしろ」と、今なら自分に言うことが出来る。

全てとは言わないが、おおかたの感情は私の場合、詩情に通じる。

私の人生にはカタルシスは必要だが、私の芸術にはカタルシスは不要である。

永遠の感傷が、そこにあっていい。そうして、ふらふらと幽霊の私と肉体の私は今世で一緒に歩くことが出来る。
私は地に足を着けながら、同時に狂気にも浸れる。

かつてはそれを憎んだ。
突出したものが無い自分を嫌った。
しかし違った。どっちも在っていいのだと、どれも出来るのであれば、全て真実であると。

だから私はまだ、暫くは書くだろう。
そんなわけで、私の創作生活はまだ続きそうである。

膝を折っても、心を削り取られても、現実に汚されることがあっても、足りないものを追い求めて、完成など無い世界で、私は書き続けるだろう。

かつて、社会生活の中で受けた穢れを清めたい。それは、雪解け水のような冷たい水で洗い清める必要がある。これは私の技巧で果たされるものだ。

そういう祈りのようなものが、この読みにくいペンネームの由来であったりする…。

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