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12月30日の渋谷によせて


2017年が終わる数日前、電車に乗っているときだった。

私は黒いキャップをかぶり、射光用の伊達眼鏡をかけて白いスヌードをかぶり、スキニージーンズとリーボックのハイカットを履いて座っていた。ワイヤレスのイヤホンでBRAHMANを聴いている。A WHITE DEEP MORNING。正午過ぎ、中学時代の友人と渋谷で待ち合わせるため、JRの急行電車に乗っていた。

電車の中は混雑とも閑散ともいえない状況で、わたしは窓から差し込む光を後ろ頭に受けて、眠気に抗っていた。数日前からひいた咽喉風邪を食い止めるべく飲んでいた市販の薬のせいか、不定期に睡魔が現れている。喉が渇いていたので、鞄の中にしまった緑茶を取り出そうと瞼をあげると、隣に座った60代くらいの女性が自分の手元を眺めているのに気付いた。

膝の上に置いてあるのは、ナイロンのクラッチバックとスマートフォンである。スマートフォンケースには京東都の蛸のワッペンとダイソーで買った雷神のシールが貼ってある。蛸のワッペンは接着剤でとめているのだけれど、右から二本目の足が剥がれかけてしまっている。

「それはなに?」

わたしの視線に気付いて、その人はわたしのスマートフォンケースを指さした。その時、イヤホンからは落語の「千両みかん」に変わった。わたしはイヤホンの片方を外して、その人に答えた。

「蛸です」
「刺繍なの?」
「刺繍です。こういうワッペンがあって」
「そうなの」

感心したように、けれどもけして納得していないような相槌をうったその人は「それは自分でやったの?」とわたしの爪をさしてそう言った。わたしの爪には、ちょうど一週間前塗り替えたジェルネイルが乗っており、なんとも形容しがたい色合いと飾りがほどこされている。紫と白と銀色、ときどき青い鱗。うめこまれた小さなパールとホロ。

「これは人にやってもらったの」
「そうなの」

きれい、とその人は言った。そして「でも、独身だから出来るのね」と言った。

「ごはんとか、いやじゃない、そういうの、嫌がるでしょ、旦那さんは。結婚して、ご飯を作るんじゃそれじゃ気持ち悪いわよね。独身だからいいわね」

「そういうもの?」と聞くと「独身だから、そういうの気にしなくていいのね」と笑顔で言った。

「あなた、外国人なの?」
「ううん、日本人」
「そうなの、顔がねあなた、日本人じゃないのだけれど、言葉の感じがどうも外国の人じゃないなあって。韓国とも、そのあたりの人とも違うから。そうなの、日本人なのね。電車に乗ると、わたしなんかよく若い子を見るけど…」

そうやって電車の中を一瞬見渡した。どうしたって、日本人だけなんて場所、この東京にあるはずがない。

「色んな人がいるからねえ」
「そうなの。わたしは今日両親のお墓参りに行って来たのよ。あなたどこから来たの?」
「横浜だよ」
「あら、一緒ね」
「そうなの?」
「あなた独身なんでしょ?いいわね、おしゃれで」
「わたし、結婚してるよ」
「あら、そうなの、あら…何年目?」
「もう4年目かなあ」
「18、19で結婚したのね、子供は?」
「ううん、25才くらいの時。こどもはいないよ」
「旦那さん、何をしている人?」
「えーっと、音楽をやってる」
「あら…あ、ヒッピーってやつね」
「まあ、似たようなものかな」
「それで、何もいわないの?遊びにいけるの?いいわね、やさしい旦那さんを捕まえたのね」
「ふふふ」

渋谷の駅に電車が付きわたしが席を立つと「ここで降りるのね」と言われた。わたしは「よいお年を」と言って降車した。

ホームに降り立つと人波はさほど激しくなかった。JRからハチ公口までは少し距離がある。わたしは友人との待ち合わせに遅れていた。

TSUTAYAの1階で待ち合わせた友達は同い年。中学の同級生で、上京して暫くしてから度々会っていたのだが、クリスマスの夜に数か月ぶりに連絡があって、晦日の日に会おうということになったのだ。彼女も結婚していて、自分の好きな仕事をして、自分の好きなものを買い、自分の好きなものを身に着けている。

わたしたちが子供のころ、自分を幸せにするために必要なものが「結婚」だなんて誰も教えてくれなかった。「恋愛をしていれば豊かになれる」なんて思春期の想像だった。時がたち「子供は作るものではなくて訪れ育むもの」であるということを知った。なにごとも、わたしたちは正しく教育されてきた。そしてその教育の中にあった「当然」は、その「当然」の特性を持ち、美しく消えかけている。

女と男を区別する呼び方が廃止され、わたしたちはあまりに無垢に「女」を謳歌した。女で、男で、それとこれとは別にわたしたちはわたしたちだ。自分を愛するために「恋愛」や「結婚」が必要なのかどうか、答えはまだ見つからないまま。けれど、それ「だけ」ではもう満足できないのだ。

「恋愛」「結婚」「こども」この言葉でわたしたちはもう容易く傷ついていられないのだ。
というか、傷付くような感傷をもう持ち合わせていないのだ。わたしたちがほとんどを健やかに生きていくために必要なのは「自分の物語」の隣で「自分達以外の物語」が並走していることを知るということに他ならない。

わたしは電車で出会った彼女の言葉に、逃げることも激昂することも出来たはずだった。
それすら鼻で笑っていなしてしまえなかったのは「誰かが生きている物語」にも「自分の物語」にも傷をつけたくなかったからだ。

あなたにはあなたの人生があり、わたしにはわたしの人生が。誰かを傷付けるつもりのない人生、それでいいじゃないか。守りたいものは「自分の物語」でいいじゃないか。

「爪を塗り、好きな格好をする自由な妻」「遊び歩く妻を許す優しい夫」「こどものいない夫婦」、そういう、誰かが作り出した(こと悲劇を冠する)物語に登場してヒールや異端児をやっている暇はないのだ。自分らしく生きる喜びにはすべてが代え難い、些細なことだろう。

電車で出会ったあの女性にも、同級生の彼女にも、わたしにも、渋谷を行き交う人たちにも、代えがたい人生がある。代替のきかない、おそらく一度きりの人生がある。おそらくどれもが美しい恋愛でも、苦しい結婚でも、楽しい育児でもないだろう。すべてに苦楽がともなう、すべての人に物語があり、すべての人に代えがたい「自分」がいる。

わたしたちは、誰も、自分にだけは騙されてはいけないのだ。

(2017年12月30日によせて)

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