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「自分にしか興味がない」をつきつめたなら

ずっと前から、気づいていた。わたしの最大の興味は、「自分自身」なのだと。

認めたくなかった。小さな子どものように自己中心的で、他人の迷惑も顧みない自分勝手。そういうイメージがぶわっと押し寄せて、恥ずかしくなった。思春期以降、がっしり根を張った他者への恐怖心も、自分の内面にこもることに拍車をかけている気がして、きまりが悪かった。誰にも知られないように、そっとしまっておかなければ。

そもそも「自分自身」に興味があるという事実は、進路や就職先を選ぶときにまったく役に立たなかった。「わたし」のことを教えてくれる学部なんてないし、「わたし」ひとりで完結する仕事はもはや仕事ではない。

誰にも言わずに、読み替えることにした。「自分自身」への興味を、「人間の身体のしくみ」への興味に。仕事にいたっては、深く考えることをあきらめた。自分の好きなことを仕事にできる人などほとんどいないのだから、条件さえよければ、何であれ適応しようと開き直った。

そうして自分を飾り、偽ることが当たり前になった。人が怖いなんて、決して悟られてはいけない。学生生活にも仕事にも差し障る。興味も関心も感情も偽るうち、いつのまにか、最大の関心ごとだったはずの「自分自身」を見失っていた。

社会人生活を数年経るうちに心身の不調を見過ごせなくなり、心の奥底に埋もれてしまった「自分」を探しはじめた。本を読み、文章を書くことで、無意識に埋もれたものを紐解き、自分の内面に向き合った。楽しかった。夢中になった。でも、ここで満足してはいけないと頭の片隅でずっと思っていた。ここはあくまで通過点。いつかはちゃんと人の役に立つことに、関心を向けなければ。自分に向き合いきることができたなら、他者への恐怖心を克服して、人の役に立つことにも気持ちが向くだろうと信じていた。

そんな自分探しが少し落ち着いたころ、ライターの古賀史健さんの言う「取材」のスタンスに衝撃を受けた。

語られたことばをそのまま再現するだけではなく、「このとき、この人なら、どんなロジックに基づいてどのようなことばを発するか」を考える。
世情のなにに興味をもち、なにに興味をもっていないのか。仕事において、人生において、なにを行動原理としているのか。
文章を模倣するのではなく、人柄を、価値観を、思考とその道筋を見定め、「この人ならきっと、こうするはずだ」と思えるところまで理解を深めていく。
古賀 史健 著 「取材・執筆・推敲――書く人の教科書」(ダイヤモンド社)より一部抜粋

取材対象である人をこれほどまでに深く理解し、自分の言葉で再現しようとする試みがあるとは。他者の経験・価値観・思考を自分のなかに取り込むことは、その人の視点を生きようとすることと同義だ。わたしたちは誰だって、自分自身の感覚のなかでしか生きられない。その人生最大の制約を飛び越えて、誰かの感覚をも生きるなんて、ものすごく楽しそう。強烈な好奇心が湧き上がるのを感じた。

「他者の視点」への好奇心に気づいたとき、物心ついたときから感じていた「自分自身」への興味の正体を知った。わたしの持つ「自分自身」への興味は、「自分を生きること」そのものに向いている。わたしの身体が経験し、感じ、そこから導きだすことのすべて。それらを意識して味わいたい。だからこそ、「他者の視点」を生きてみたいのだ。比較対象がなければ、自分の経験や感覚の輪郭をはっきりつかむことができないから。

この命で、「自分を生きること」を味わいつくしたい。わたしはどうやら、そんな望みを持って生まれてきたらしい。その鮮烈な衝動を前にすると、人が怖いという意識すら、ちっぽけな震えになった。何年も何年も、わたしの全身を乗っ取って、身動きとれなくしていたのに。

「自分自身」を生きることへの興味をつきつめたら、「自分以外の誰か」を生きることへの興味に転じる。他者の生き方や視点と深い交わりを持つことに、このうえない好奇心を感じる。だからこれからは、古賀さんの言う「取材」のスタンスを取り入れて、仕事や趣味に活かしたい所存。これまでのわたしならば怖くてできなかったことも、今ならばできる気がする。人の役に立たなければ、と気負わずとも、ただ好奇心を満たしたい一心で、誰かのお役に立てる気がする。

なにせこれは、わたしの命の衝動なのだ。



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最後まで読んでくださってありがとうございます! 自分を、子どもを、関わってくださる方を、大切にする在り方とそのための試行錯誤をひとつひとつ言葉にしていきます。