だからこそ今できることを精いっぱいやる

令和六年一月三日 水曜日 曇り

 わたしが生まれる前の1995年の1月17日に阪神淡路大震災という大きな災害があった。兵庫県の明石海峡を震源地としたマグニチュード7以上の大きな地震で、その当時両親が住んでいた地域も相当の被害を受けたと聞いた。
 わたしの両親は1994年の春に結婚して兵庫県の西宮市というところに住んでいた。父は結婚の数ヶ月後に長崎県の佐世保市に転勤することになった。母は働いていたし職場を辞めるつもりもなかったから、父は単身赴任することになった。それからは父は西宮の家にはふた月に一度くらい出張のついでに帰り、自宅で数日間過ごして九州に戻るという生活をしていた。
 1995年の一月、父は出張で神戸にきた。佐世保の同僚と一緒だった。その夜は同僚たちと三宮の繁華街を飲み歩いた。かなり酔いもまわってご機嫌になった頃ふいに時計を見ると、もう駅まで走っても終電に間に合いそうにない時刻になっていた。そのとき九州から一緒に来ていた同僚がホテルの俺の部屋に泊まればいいよと言ってくれたので、ならばお言葉に甘えてもう一軒飲みに行こうと思ったその時、繁華街で客待ちをしていたタクシーの運転手と目が合った。その瞬間に父はこのタクシーに乗って西宮の家に帰らなければいけないと酔いが醒めたらしい。そして誘ってくれた同僚に断りを入れてタクシーで四十分ほどかかる西宮の家まで帰った。
 地震があったのはその日の早朝だった。ベッドから身体が跳ね上がり重たいテレビが三メートルほど吹っ飛ぶほどの強い揺れが兵庫県の南部を襲った。阪神高速道路やビルが倒壊し、鉄道の高架は電車ごとぺしゃんこに潰れた。九州の同僚が泊っていたホテルの周辺でも雑居ビルが横倒しになり、近くの繁華街も大半の建物が全壊もしくは半壊し、割れたガラスや瓦礫で道路は埋め尽くされた。
 その同僚が寝ていた部屋も窓ガラスが割れテレビが床に落ちて、部屋のドアは内側から開けることが出来なくなり、廊下にいた人に体当たりして開けてもらったほどひどい有様だったそうだ。さいわい父の家は窓ガラスが数枚割れ、棚から食器が落ちた程度ですんだ。母も無事だった。
 すべての交通機関が止まってしまったのでその同僚の方は瓦礫の中を一時間以上歩いて、父は西宮から五時間以上歩いて神戸の職場に行った。まるで世界がひっくり返ったかのような大変なことが起きた日に家族をほったらかしにしてまで職場に行くというのがわたしにはさっぱり理解できないのだが、それが平成生まれと昭和生まれの違いなのだろうか。
 父は西宮から神戸まで歩きながら見慣れた街の惨状を目にしたとき、同僚が泊まっていたホテルは幸いにも倒壊を免れたけれど、その周辺の状況をみてそのホテルが倒壊した可能性だって十分あり得ただろうと思い、同僚が無事だったのは単にツイていただけだと思ったとわたしに言った。そして気が変わってタクシーで家に帰らずにそのまま飲みにいき同僚の部屋に泊まっていたら、俺だって死んでいた可能性もあったともわたしに言った。

 人の生き死になんて紙一重だ。理由なんてなくてツイてるかツイてないか、ただその程度のことで決まることが多いと父はよく言う。
 戦時中にまだ中学生だった大叔父は徴用で工場で働いていた。ある日その工場に空襲があった。逃げようとして同僚と一緒に駆けだした瞬間に靴紐が解けてころんだ。その瞬間一緒に駆けだした同僚の頭に戦闘機が撃った銃弾があたった。そして眼の前に頭が無くなってしまった同僚の亡骸が横たわっているをみて、靴紐が解けなければ死んでいたのは俺だったかもしれなかったという話を大叔父から聞かされて父は育った。
 俺がいまここでこうしているのもたまたまだと。本人の意志とは関係なく運に転がされる人生だってあるし、人生なんてどうなるかわからないと。父も結婚したときは生涯の伴侶であるはずだったわたしの母をまさか十六年後に癌で亡くすことになるなど思ってもみなかったはずだし、娘が精神障碍者になるだなんて思ってもみなかっただろう。わたしだってそうだった。二十歳のときは自分が精神障碍者になるなんて思いもしなかった。
 明日のことだって一体誰にわかるというのか。人生なんてどうなるかわからない。たまたまその時その場所にいて誰かに会ったことで人生が変わったなんていう人もいる。いまにも赤に変わりそうな目の前の信号を急いで走って渡るか、立ち止まって青になるまで待つのか。それだけでも人生が大きく変わることがあるのだろう。そんな気がする。
 じゃあどうやって生きるのか。だからこそ投げやりになるのではなく、今できることを精いっぱいやるんだと父は言った。わたしも正解はそれだけしかないと思っている。


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