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【短編】ねる先輩

 大学生になったわたしは軽音楽部に入って、そこに少し馴染んできた頃に坂口という先輩と付き合いはじめた。軽音楽部の新入生歓迎コンパで坂口とすっかり意気投合してしまい、そのまま坂口の部屋に泊まってしまったのがきっかけというあまり人には言いたくないような馴れ初めだった。

 六月のある雨の日、烏丸鞍馬口近くの坂口の部屋でアスファルトに打ち付ける雨音を聞きながらわたしは彼とベッドにもぐり込んでお互いの温もりを確かめ合っていた。
 しばらくして雨が止み、わたしがベッドに潜り込んだままうとうとしていると不意に坂口が軽音楽部に在籍していた卒業生のことを語りはじめた。その人は文章を書いても上手いし写真を撮らせても上手い。それだけではなくていい映像を撮るし、作詞も出来たし作曲もできたんだと坂口が言う。
 
 「ねるさんっていう人なんだけど、とにかく多才なひとだったんだよ」

 本当かなぁと思った。そんな多才な人がいるのだろうかと半信半疑になる。だって当然だ。普通の人は音楽にしろスポーツにしろひとつのことを習得するだけでも大変なのに。それにそんなに多才な人なんていままでわたしの近くにはいなかったから想像も出来ないし見当もつかない。

 「どうせ全部中途半端なんでしょ」

 わたしがそう言うといやそんなことないよと坂口がむきになった。

 そして坂口がねるさんの写真が写っているインスタグラムをわたしの目の前に近づけてきた。

 へー、イケメンだなと思った。でも多才な上にイケメンだなんて嘘みたいだとも思える。それにここまでくると出来過ぎている。なんか怪しい。

 「絶対に怪しいよこの人。こういう人には迂闊に近寄らない方がいいよね多分」

 わたしはそう言ってその話題を打ち切った。そして服を着てふたりで近所に食事に出かけた。出かけた先でねるさんの話題が出ることはなかった。

♢♢
 
 八月のある日、いつものように部室にいくと今までは気にも留めていなかった壁に掛けてある写真が急に気になった。いままでは素通りしていたんだけどよく見たらなんかいい写真だ。よく分からないけど。
 わたしはその頃友人に影響されてカメラを始めていた。しかも何を思ったかいきなりフィルムカメラだ。写真部の先輩に甘えたらペンタックスの安いカメラをタダでゆずってくれたので、それが気に入って休日のたびにいろんなところに出かけては高価なフィルム代にもめげずに自己満足としか言えない写真を撮っている。
 写真を撮り始めて三月ほど経った頃、わたしが撮った写真はなんかつまらないと感じ始めていた。そして部室の壁に掛けられた写真がわたしの写真とは比べ物にならないくらいとても魅力的に思える。
 「それねるさんっていう卒業生が撮った写真だよ」下浦という先輩がそう言った。

 ねるさんかぁ。

♢♢♢

 夏休みも終わって学校生活も通常運転にもどったある日、軽音楽部のスタジオに行くと先輩たちが練習をしていた。そういえばこの曲は前から何度も聴いているけど誰の何ていう曲なんだろう。あとで先輩に訊いてみようか。
 練習を終えた佐伯という先輩がわたしのところに近づいてきて今度やる曲をお前のスマホに送っといたから聴いとけよとだけ言うとどこかに行ってしまった。
 その日の夜自分の部屋に帰ってからさっそく先輩が送ってきた曲を聴いてみた。あ、オリジナルなんだ。随分こなれてるなぁ、これは完成度が高いぞと思った。そして次の日佐伯に会って昨日渡してもらった曲は誰の曲なのか訊いてみた。

 「あれはねるさんっていう卒業生が残していった曲だよ」

 またねるさんだ。今度は音楽か。

♢♢♢♢

 十月になった。文化祭の準備をすることになって物置に入って必要なものを探す。ふとクルクルと巻かれた大きな白い布が目に入った。広げてみるとかなり大きな布でそこに目いっぱい抽象的な絵が描かれている。わたしは隣にいた多々野という先輩に「もしかしてこれを描いたのもねるさんですか」と訊いた。
 なんだ、知ってんのかよと多々野が答えた。そして「ねるさんはおまえが好きな乳酸飲料のCMもつくったことあるんだぜ」と言いながら胸のポケットから取り出したくしゃくしゃのタバコに火をつけた。

 もういたる所ねるさんだらけじゃん。

♢♢♢♢♢
 
 文化祭も無事に終わり落ち着いた生活が戻ってきた頃、鞍馬口の中華料理屋で坂口と夕食をとった。わたしは坂口のコップにビールを注いでやりながらねるさんっていう人はいまどこでなにをしてるのと訊いた。
 「たしか映像制作会社に入ったんじゃなかったかな」坂口はそう言って、よく分からんと付け足した。「なんだよ、ねるさんに興味があるの?」と坂口が笑いながら言った。

 「前に話したときは全然興味ないどころか胡散臭い人だなんてことまで言ったじゃん。どうしたんだよ」

 坂口はそう言いながらわたしの取り皿に青椒肉絲をたくさんよそってくれた。

 「んー、写真もみたし、音楽も聴いたし軽音部の旗もみたし、なんとなく」

 わたしはそう言うとコップに残っていたビールをんっと飲み干した。そしてお互い無言になって料理のはいった皿をつつきながら、坂口の指を見ているうちになんとなく身体がそわそわしてくるのを感じた。

 「ねぇ、そろそろ部屋に帰ろうよ」

 そう言いながらテーブルの下の坂口の脚を軽く蹴った。

 初秋の京都らしく夜になるとめっきり冷えた。耳たぶが冷たい。もう遅い時間なのに車や人の往来が絶えない烏丸通を歩きながら一度も会ったこともない卒業生のねるさんのことを考えた。
 薄緑色の市バスが唸りながら走り去っていく。それを眺めながらねるさんだったらあのバスにどんな絵を描くんだろうと、少ししか酔っていないのに随分と回転が鈍くなった頭でぼんやりと考えてみる。あの店のBGMを作曲したのもこのビルをデザインしたのもねるさんだったりしてね、なんて考えてみる。それどころかこの街のデザインすらもねるさんが手がけたのかもしれない。でもさすがにそれはない。だってここは千年の歴史を誇る京都の街だから。
 そんなことを考えながら夜空を見上げた。透き通るような青白い月が浮かんでいた。そしてあの月の表面にうさぎを描いたのはねるさんかもしれんとふと思い、なぜうさぎなんだろうと思った。うさぎは黙ったままぼんやりとした目でわたしを見下ろしていた。

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