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霧の中で聴きたくなる声

単年契約の仕事、更新するかしないか問題。
私にとってその職場は、いくつもあるかけもち職場の中でも、思い入れのある大切な場所だ。
あたりまえのように毎年更新してきた。
だけど秋口には、グラグラと揺れるものを感じ、冬には【もう更新しない】選択肢を意識していた。

はじめから非常勤のかけもち人生を着々と歩んでいる私。
フリーランス。といえば聞こえはいいが、不安定で保障のない、根無し草。

社会人になって数年の当時、遠距離恋愛中だった彼からプロポーズされ舞い上がった(もちろん高らかに「YES」と返した)その翌週、ある職場から次年度は正規職員として勤務してもらいたいと打診を受けた。
それは思いがけないタイミングで、帰り道はアクセルとブレーキを交互に踏む足がぐらぐらと震えた。
職業人生のスタートには訳あって叶わなかったが、ずっと正社員という立場に憧れていた。
プロポーズ。正社員。両立は不可能。
やっとの思いで車を路肩に停め、おもむろに電話をかけた。

「もしもし?どしたん?」

耳に響いたのは母の声。その頃、実家暮らしだった私は毎日のように聴いている、いつもの声だ。
でも、私の心はただそれだけで、泣きたくなるほどにほっとした。
先週、人生の船出のホラガイを吹いたばかりの私が、この瞬間ぐらぐら揺れている。

ひととおり、私のまとまらない話を聞いたあと、諭すように言った。
「ゆきちゃん。人を支える仕事をするためには、まず自分がしあわせでおらんと」
するすると力が抜けた。
ハンドルを握る手はもう震えることはなく、私の心は決まっていた。

それから、結婚、出産で細切れになりながらも私の職業人生は、自分の人生に沿うように細々と続いてきた。

さて、今回の【更新するかしないか問題】には、私の力不足に直面する痛みと責任を投げ出す不誠実さの苦しみがあった。
ぐるぐる考えて、書類の前で正座したまま、何週間もたってしまった。
今日は消印有効日。せっかくの平日休みなのにもう何も手につかず、涙はこぼれてくる。
そんな時に、ふとある人の声を聴きたくなった。

「もしもし」
実際、声を聴くだけで、するするすると心は落ち着いた。
夫の声。
貴重な昼休みを奪うのは少し忍びなかったが、シーソーのような私の気持ちを、ふんふん、と聴いてくれた。
彼にとっては、もうそれまで何度も聴いて聴いて聴き飽きているはずの【するかしないか問題】だったはずなのだが、最終日にまで迷っている私を半分鼻で笑っていた。
「無理せんとき」
それで腹が決まった。

書類を投函してしばらくは、モゾモゾと心が毛羽立っていたが、今は晴れやかな気持ちで、前を向いている。

迷いの中にいる時に、どうしても聴きたくなる声がある。
かつてそれは母のものだったのだが、いつのまにやら夫から発せらせる低音ボイスになったのだった。

声には不思議な力がある。
言葉だけじゃない、形のないその声に力が宿っている。
私にとって、大切な声がまたひとつ増えたことを確かめられたことは喜ばしいことだ。
(実家の母や夫には面倒をかけるのだけど)
霧の中を右へ左へうろたえるとき、足元をほんのり照らす声のことを【ともしびボイス】と呼びたい。

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