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きみが教室を出たら授業を再開します

大学生の頃の、猿にまつわる思い出。

1年生の冬。
ふるさとを離れたばかりのおっかなびっくりの春を過ぎ、はしゃいだ夏、こなれた秋を過ぎ、学びも遊びも自分次第という自由な生活にすっかり馴染んできた頃だった。

自由ではあったが生活は慎ましやかだった。
アパートは狭い1Kで、東向きのベランダ。昼を過ぎると室内は暗くなる。
4階建て最上階の部屋(エレベーターなし)。大学までは自転車で15分、徒歩だと地味に遠いのがミソで家賃は41000円(大学近隣のお洒落マンションと比べれば格安の物件)。

仕送りは毎月40000円。無利子の奨学金を毎月50000円借りていた。2つ上の姉も一人暮らしをしていたし、3つ下の弟も私と同時に寮生活の高専に入学したので、両親はさぞ教育費をめぐる家計のやりくりに頭を悩ませていたのではなかろうか。
仕送りは家賃の支払いで消えた。光熱費、食費、日用品、服飾費で奨学金を使い、残りがゆとり分つまり交際費となる(半期ごとの学費は親が支払ってくれていた。学費をもアルバイトで稼ぎ出しているという同級生もいた中、私の慎ましやかさなど、十分贅沢と呼ばれてしかるべきレベルのものだったかもしれないと今は思う)。

当時の私は、一丁前に遠距離恋愛(九州東海間)をしていた。高3の冬、同じ高校の同級生と付き合い始めて、受験期を互いに励まし合い、晴れて卒業とともにそれぞれ離れた地域に進学したというわけだ。
恋人に会うためには新幹線代を捻出する必要があった。
そんな事情もあり、入学後のGWから回らない寿司屋でのアルバイトをコツコツと続けていた。

冬になり、暮らしが板についてきたことをいいことに、寿司屋の近くにできたスポーツジムでオープニングスタッフとしてアルバイトを始めた。いわゆるダブルワークというやつだ。
平日は遅くまで寿司屋かジム。休日は朝からジム、夕方から寿司屋へとはしごして働き、コツコツとお金を貯めた。
ジムでは、受付業務からプールの監視、スタジオプログラムのインストラクター業務まで、オープニングスタッフならではの和気あいあい感を存分に味わいながらさまざまな経験をさせてもらい面白かった。とはいえ体を使う仕事なので疲労も大きい。

もともと朝は苦手で1限(9時〜)の遅刻はよくあることだったけれど、ダブルワークを始めてからその回数はうなぎのぼりとなった。
自由を謳歌し、自由に追い立てられ、とにかく疲れすぎていた。

金曜1限の英語の先生は、髭と眼鏡が似合うダンディな男性だった。見た目だけでなく、温かみのある低い声、穏やかな人柄が本当に素敵だった。
前期ではこのダンディ先生のもと、映画グッドウィルハンティングをみんなで試聴した思い出がある。

ある朝。
遅刻して小教室に現れ最前列(そこしか空いていなかった)に倒れ込むように着席し、白目で聴講しているかと思えばじきに舟を漕ぎ始めついには突っ伏して入眠してしまう私のことを、ダンディ先生はきっと忌々しく感じただろう。
さらに悪いことに、翌週もまったく同様の光景(デジャヴ)が繰り返されたその時。最前列で眠りの底にまどろむ私の耳に微かに先生の声が響いた。
「きみ…きみ…きみが教室を出たら授業を再開します」
穏やかな声が私の脳を激しく揺さぶった。
???
きみ=私であることに気がつくのにほんの2秒くらいかかっただろうか。いやもっと長かったかもしれない。永遠にも感じられる凍りつく小教室の空気!
「は!はい!(ガバッと立ち上がる)すみません…!」
広げたテキストやペンケースを慌ててかき集め、半分白目でペコペコ頭を下げ、みなさんの学びの時間をお邪魔してはならぬ!と大急ぎで小教室を飛び出した。

すっかり目は覚め、心臓はバクバク、額からは冷や汗が流れ、足はガクガク震えていた。まどろみのアルファ波から突然のアドレナリン大放出で体は混乱状態であった。
私は必修科目の英語を落としてもーた!と地下パー(地下パーラーという名のカフェスペース)でうなだれた。

だが翌週、私は果敢にも小教室に足を踏み入れた。もちろん、この日ばかりはアパートでいつもより早く目覚め、15分チャリを飛ばし、定刻前に最前列に鎮座し先生を待った。
みんな(同じ学科のメンバー)の憐れみと蔑みの視線は痛かったが、できることなら先生にこれまでの無礼を詫びたい気持ちがあったのだ。

ガチャリ。先生が現れた。
気まずい空気。みんなが固唾を飲んで見守る中、私は立ち上がった。
しかし、驚くのはここからだった。先生は私に気がつくと厳かに語り出した。
「おお、きみ、先週はきつく言ってしまってすまなかった。きみにも色々とあるんだろう。お詫びと言っては何だけどこれを」と小さな箱を差し出したのだった。
なにが起きているのか全く飲み込めなかったが、小箱を受け取り、失礼な態度を取ってしまい、本当に申し訳ありませんでした。そう言うのが精一杯だった。
周囲から安堵のため息が漏れた。みんなごめん、私の愛欲にまみれたダブルワークのせいで心配かけたね。

授業が終わり、空き時間に友人と地下パーで小箱を開けてみると。
そこには手のひらサイズの猿の土鈴がカランコロン。
友人と私は顔を見合わせて、うなずきあい、そっと小箱のふたをしめた。
先生の寛大さ、許す心、ダンディで温かい声がこだましていた。

さて、疲れ果てた一学生へのメッセージとして、選ばれた猿。
明けたばかりの新年、その年の干支が申だったのかもしれない(確かめてみると大学1年の冬、2004年はたしかに申年)。
土鈴=金の奴隷であるダブルワーカーへの戒めだったのかもしれない。
単に先生の家に縁起物が余っていただけかもしれない。

今ではその真意は分からないけれど、自分の無礼さと猿は、忘れられないものとなった。
先生を傷つけ自分も恥をかいたことで、その後いっさい最前列の席で寝てしまうことはなくなった(どうにかもっと早く気が付けなかったものか)。

やがて春が来て2年生になり(ダンディ先生はしっかりと単位を授けてくれていた)、あんなにがんばって新幹線代を捻出してきた遠距離恋愛は思わぬ形で解消されることとなった。
(なんせ相手も自由を謳歌していた。可愛い後輩ができ、なんだか楽しそうなキャンパスライフの話を聞くと私の中の見捨てられ不安がめきめきと高まり、振られる前に振ってしまうという暴挙に出てしまう。その後未練タラタラな数年を過ごすことになるのだが、それはまた別の話)
スウィート19ブルースの私ってやつは、いったい何がしたかったのか。

大学生の頃、こんな本末転倒なことが私には本当にたくさんあった。痛い目をみて、恥をかいて、身に染みてわかったこともあった。
大切なものを大切にできなかった19歳の私へ。18年経った今、声をかけるとしたら。
「きみにも色々とあるんだろう」やっぱりそうなるかもしれない。
ほろ苦くて恥ずかしい猿の思い出。

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