見出し画像

旅行記 ヨーロッパ短期旅行 第二話

朝になり私は何か騒ぎ声のような音で目が覚めた。おぼろげながら目を開き周りの様子を見ると数人の老人が傍にあるテレビを囲み何やら笑顔を浮かべながら騒いでいる。どうやらそのテレビでU20のサッカーの試合結果が放送されているようで韓国が私の国に勝利したことが報じているようだった。しきりに老人たちはウリナラ!と勇むように話していた。私は寝たふりをしながら老人たちの様子をうかがっているとツアーガイドか誰かに促されその場そそくさと立ち去っていった。彼らの旅の出だしはかなりよかったようだ。そんなに日本に勝ったことがうれしいのだろうか、私は若干不愉快に思いながら時計を見てまだ出発の時間に余裕があるのを確認すると、空港のレストランへと向かった。昨日の夜は特に何も食べていなかったため、スンドゥブやらカルビやら冷麺やら色々頼んでしまった。料理が運ばれてくる湯気が立ち上ぼり、テーブルの上がわっと華やいだ。手始めに煮えたつスンドゥブを口に運ぶと刺激的な辛さとスープの旨味が五感に広がり体からみるみる活力が湧いてきた。カルビを貪り、デザートに冷麺をかきこんだ。北朝鮮生まれの冷麺はデザートとして食べられていたと聞いていたので、私はいつもそのように食べている。果たして本当にこの食べ方が正しいのかはわからないがやはり締めといった感覚なのだろう、いつかは平壌にある玉流館で本物の平壌冷麺を食べてみたいものだ。腹ごしらえを済まし再度出国の手続きを完了させ、飛行機に搭乗するために出発のロビーへと向かった。搭乗まではいくらか時間があるため私は少し開けた空間にあったベンチに座って休むことにした。近くにピアノが置いてあり子供たちが鍵盤は叩いて楽しげに遊んでいた。子供たちが親に連れられてどこかに行ってしまうとそこはまた静寂に包まれ、私は一人取り残されたようになっていた。しばらくすると一人の韓国人の老婆がやってきてショパンを弾き始めた。老人とは思えない軽やかな動きで鍵盤を奏でる姿に私は演奏が終わると拍手を送ってしまった。老婆ははにかみながらカムサハムニダと言い残すと自分の旅路に戻っていた。普段の灰色の生活では全く見ることのない光景にうっとりとしている間に搭乗時間が迫ってきたためウィーン行きの搭乗口までいそいでいった。飛行機に乗り機体が動き出すとまた忙しいハングルの機内アナウンスが流れ始め、キャビンクルーたちがいそいそと動き始めた。乗客のほとんどは韓国人で日本人はおろかオーストリア人と見える人はほとんど見当たらない状態であった。東京から仁川の飛行機とは違い10時間の長距離フライトのため機体離陸後、高度が安定すると機内食の配膳が行われ始めた。料理の内容は肉料理、魚料理、コリアンスタイルの3つでありコリアンスタイルはビビンバと牛肉のスープである。私は折角なのでコリアンスタイルを注文するとキャビンクルーが熱湯を入れたスープとビビンバとそれに入れるコチュジャンを渡してくれた。スープの香りはことのほか良く、それが機内食であることを忘れさせる程の出来映えである。食事をさっさとたいらげると、急に眠気が襲ってきた。昨日の仕事の疲れ、そして予定外の空港ベンチでの睡眠などがたたっためと思われる。特に時差ぼけも考えずそこから眠ることにした。席は居心地がいいわけではないが空港のベンチよりははるかにマシである。
目が覚めると朝食?と思われる軽い食事の配膳が始まっていた。まずは濡れタオルが配られその次にパンとジャム、やる気のない果物が配られた。その食事が終わると機体は間もなくウィーン上空に差し掛かりつつあった。少しずつヨーロッパの大地が姿を現しはじめ、小麦畑に覆われた畑が一面に広がっていく。どうやら現地は夕方らしく西日の光がウィーンの空港を照らしていた。飛行機は無事着陸し機体を降りるとそこはヨーロッパなのだと改めて感じた。ウィーンの空港はそこまで新しい空港ではないが、きらびやかなアジアの新空港とは違う何か不思議な暖かみのようなものを感じた。空港から市街地へと延びている電車に乗るため駅に向かってる途中。黒色のキャソックの装束をまとったカトリック僧たちに出くわした。普段宗教からは距離がある文化の中で生活しているためかそれはとても新鮮でもあり神聖にも感じた。西欧に来た同時にそれとほぼ同意義のキリスト教世界に自分が今いるのだということを再認識させられた。切符売り場に行きウィーン中央駅行きのチケットを手に入れホームへ急いだ。まもなく赤色の鮮やかな電車が滑り込んできて駅にいた帰国者や旅行客が乗り込んでいく。私も窓側の席を確保し一息つくことができた。窓の外の景色は荒涼とした荒れ地が広がっており華麗なるウィーンはまだはるか遠くにあるように思えた。それでも窓の外にある見たこともないような電車車両やアジアではあまりみない黒い鬱蒼とした針葉樹林、そしてふいに現れる教会は私の好奇心を掻き立てた。しばらく電車が進むと夕暮れの中、19世紀風の建物がぽつぽつと現れだし、ウィーン中心が見えてきた。私は以前ロシアのサンクトペテルブルクに電車で行ったときの風景を思い出した。ドイツ製の高速列車に乗りあまりにも広大な森と湿地を抜けた先に灰色の空の元、黄金に輝く聖イサクの大聖堂によって鈍く照らされたサンクトペテルブルクの町が見えてきたのを。ピョートル大帝によって人工的にロシアの大地に移植された帝政ロシアの都はあまりにも心もとなく見え、また違和感を私に覚えさせた。西欧の一部であった誇りとぬぐいさることのできないタタールの軛の中で今ももがくロシアそのものを象徴しているかのようだった。翻ってウィーンはとても自然で穏やかな雰囲気を車窓から感じさせてくれた。はるか昔ローマ人たちの宿場町として始まり、ヨーロッパ随一の名家ハプスブルク家と共に栄えてきたこの町は四方をなだらかな山と森に囲まれ、町の端にはドナウ川が流れている。極端にきらびやかなで派手ではないが、静かで気品を感じさせるまさに都市であった。電車はウィーン中央駅に入ると私は荷物をまとめプラットホームに降り立った。駅はクラシックな町には似つかわしくない、ガラス張りのモダンな外装であり、それはまるで我が国の京都駅のような様相であった。
宿泊予定のホステルは駅から近いため歩いてすぐの距離に見つけることができた。ホステルはその時間無人なためドアを開くための暗証番号が必要なようで、その番号はメールで送られてくるものらしいが私の所にはその情報は全く届いておらず、いきなりトラブルに見舞われ困ってしまった。なんとか解決しようと色々と調べたが肝心の暗証番号は見つからず焦っていると、なかからこのホステルの掃除担当をしているらしい老婆がやってきた。ドアを開けた老婆は私にグーテンナハトというと暗証番号を指で指しながら教えてくれた。私はつたなくドイツ語でお礼を言うと老婆は空を指差し胸に手を当てる素振りをしどこかへ行ってしまった。ホステルに荷物を置き服装を整えたあと、ホステルの外で会社の本部長に会うように言われた角田さんに会うため待ち合わせ場所のウィーン中央駅に再び向かった。待ち合わせの時間になると小柄な東洋系の女性が来たので話しかけるとその人が角田さんだった。小柄だがどこか存在感を感じさせる凛とした雰囲気をまとった人でハンガリーにはもうかなりの年数駐在しているとのことらしい。今回は本部長から私が来ると連絡があり、わざわざブダペストからこのウィーンまで車で来てくれたのだ。今晩は一緒に食事をすることになっていたので私はてっきりオーストリア料理のお店にでも行くのかと思い何件かお店を調べていたのだが、角田さんからは「日本食レストランに行きませんか?久しぶりに食べたいんですよ。ブダペストではなかなか食べる機会ないので。」と意外な提案受けた。まさかウィーンの最初の食事が日本食になるということは全く予想していなかったが、せっかくここまて来て頂いているのでご意向に従うことにした。日本食レストランの場所は中央駅からは離れてるため路面電車に乗りその場所を目指した。電車内で途中コントローラーによる切符のチェックがいきなり始まり、いささか強引な切符のチェックがなされた。あとで聞いた話だがコントローラーたちは元キセル乗車の常習犯だった者たちをリクルートして使っているらしい。このウィーンでは改札がないため、このような抜き打ちのチェックによって皆の良心を保っているようだ。そのような場面に驚きながらも暫くするとレストランのある目的地にた到着した。石造りの少し厳めしい建物の一階にその日本食レストランはあった。店の中は海外によくある日本食レストランといったところであろうか、意味の通らない漢字のかかれた旗のようなものがところせましと飾ってある。働いているのは恐らく現地のオーストリア人と東洋系の2人であった。メニューを開くと中々の品数で寿司や天ぷらの他にそば、うどんである。このような品揃えでは日本人駐在員の溜まり場となっていてもおかしくなさそうだが意外にも私たちの他はオーストリア人ばかりである。角田さんは親子丼を、私は生姜焼の定食を注文した。注文を待つ間、角田さんから頼まれていた日本でしか手に入らない塩飴やお菓子やマスクなどの様々な物品と共に私からのお土産を渡した。特に塩飴は重要らしく、野外で貨物の積込をする際に現場の指揮を行う時に大量の汗をかくため、とても喜んでいた。お土産の受け渡しが終わると、今度は東京本社の様子について聞いてきた。角田さんとの出会いをセッティングしてくれた例の本部長の元で角田さんも何年間か働いていたようで、本部長の現在の様子や私の部署について特に興味を持っているようだった。現在社内には親会社から出向してきた派閥と本部長のように元から会社にいた上役同士で一種の派閥争いのようなものが起きていた。どちらが優勢なのかは一年目の私は大して気にしていなかったが角田さんは外からやってきた大して仕事を知らない老人たちに仕事のやり方や会社の方針を変えられてしまうのではと恐らく気にしていたのかもしれない。読者の会社にも少なからずこういったことはあるのだろう。大学とは違い極めて小学校に近しい下らなさが日本の会社には存在しているように私は入社して感じた。誰があいつと仲がいいだの、あいつはどうだ、こいつはどうだ、そんなことはどうでもいいではないか。みなが自分自身を拠り所とし、一個人として外の世界に興味を持つべきなのではないか、自分の拘りのために自分の幸福のためにもっと突き進むべきではないか、と私は考えている。しかしそれがなかなかできないからこそみな会社に入り、したくもない業務に埋まり生ぬるい安逸を貪ってしまうのかもしれない。各言う私もその1人には変わりない。会社の様子や現地での仕事の様子など話しながら食事を食べ終わると、明日の朝ごはんを食べる約束をし角田さんが泊まっているホテルの名刺を貰いその日は別れた。外はぼんやりと暗くなり街頭の曖昧な灯りが道を照らしていた。私はホステルに戻りベッドで横になると疲れが急に眠気を誘い、時差ぼけもそっちのけで寝てしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?