伊達政宗

独眼竜、最後の賭け(3)

これは372回目。伊達政宗が、派手好みだったことは有名です。秀吉時代、朝鮮出兵に際して畿内入りした際には、将兵の軍装が余りにも絢爛豪華だったため、都人や難波人の度肝を抜いたとされています。そのことから、「伊達者(派手好み)」という言葉が生まれたそうです。

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さてその伊達政宗が、ついに徳川家と縁戚になった。家康六男・松平忠輝に、長女・五郎八(いろはひめ)を輿入れ(こしいれ)させたのである。ところが、家康にしてみれば、伊達家を一門に組み入れることで、磐石にしたつもりが、逆に母屋を乗っ取られるリスクを感じはじめた。

松平忠輝という人物は、後世の記録ではことごとく悪者扱いだが、およそそうした徳川方の記録というものは、しょせん幕政の正当化に使われているので、信憑性は低い。家康次男の結城秀康も、大変な器量人だったようだが、家康にことごとく嫌われた。同じようにこの忠輝も嫌われた。

両者ともに、相貌が醜悪であるという表現が、記録では第一義に挙げられている。しかし、実際には両者とも剛毅であり、実に器量人であった傍証が随所に残されている。悪者扱いは捏造された話であろう。優秀なものほど、後継者・家光を守るためには、かえって邪魔になってくる場合がある。その典型であろう。

問題は、この人物、キリシタンであった可能性があるということだ。すくなくとも、正室の五郎八姫は、敬虔なキリシタンであった。忠輝もキリシタンには理解を示していたことは間違いない。また岳父・政宗と同様に南蛮貿易に関心を抱いていたとしても不思議ではない。家康によって、伊達政宗のバックアップをしてもらったことで、徳川幕府を中核で支えるという信任を得たわけであるから、その野望はにわかに膨張しても当然であろう。

とくに、この二人に大久保長安が加わると、一段とこの流れが加速する。なぜなら、五郎八姫が忠輝に嫁した1606年というのは(長安、62歳)、次第に鉱山からの算出が減少していった時期に当たる。鉱山開発からの上がりに代わるものを、長安が渇望していたとしても不思議ではない。

しかし、非常に微妙な問題であるこの南蛮貿易を推進するには、それなりの権威と武力的な存在感が必要だ。長安にとっては、忠輝・五郎八姫の婚姻は願ってもないその大チャンスだったに違いない。実際、この後、産出量が激減していくにつれて、長安は要職を次第に解かれ始める。そこに焦りが無かったとはいえまい。

ちょうど、世は大阪の陣にむかって、一直線に硝煙の匂いが立ち始めるころだ。東西両軍ともに、キリシタンや南蛮貿易と密接にコンタクトし、軍事力強化に動き始めている。伊達政宗は、この機に家康から了承を得て、スペイン・ローマ本国、いわゆる「奥南蛮」との直接交易に乗り出し、支倉遣欧使節団を出発させるのである。日本中まだ、だれもこの奥南蛮との直接交易は試みたことがない。いずれも、日本や近隣の出先機関との交易にとどまっていた。

家康は、本来ならこれで幼少の家光に政権を譲っても、伊達を取り込めば一安心というところだったろう。1610年には忠輝を、信濃松代(長野県)14万石から、さらに越後福島45-60万石へと一気に加増する。忠輝と五郎八姫は、なかなか夫婦仲が良かったことが確認されている。

しかし、どうもすでにこのときから家康は、危惧していた不安を意識し始めているようだ。ある種の情報を察知したのであろうと推察される。日本在住の英国商館長リチャード・コックスでさえ、本国への連絡事項に、「松平忠輝と伊達政宗は共謀して、スペイン・ローマの後ろ盾で、徳川家康に反旗を翻す」という巷の噂を書き残している。 

それほど、忠輝と政宗の存在感が際立ってきていた証左であろう。実際に、共謀があったかどうかは定かではない。ただ、そのくらいのことは虎視眈々と考えていたとしてもなんら不思議ではないのが、政宗という人物である。

実際、その前の秀吉政権の時代にも、一度ならず二度までも、伊達政宗謀反の嫌疑がかけられている。一度目は、鶺鴒(せきれい)花押事件である。二度目は、豊臣秀次粛清事件である。いわば、体制側としてみれば、これほど危険な有力者もいない。いわば、叛意を常に潜在させている「札付きの前科物」なのである。

大久保長安は、武田遺領から、信玄の諜報機関をそっくり我が物にした可能性は高い(真田昌幸も同様である)。それだけに大阪の豊臣方や、関が原合戦以降、死一等を減じられて、和歌山の九度山に幽閉されていた真田昌幸・幸村父子と、なんらかの連絡を取り合っていたとしても、これまた不思議ではない。が、当然そのような記録が残っているわけもなく、客観的には、彼らを結ぶ線というものは、ほとんど無い。

伊達政宗、松平忠輝、大久保長安、そして彼らと大阪方および真田幸村との間に、関係があったかなかったか、まったく不明だが、大阪の陣の後の伊達政宗の挙動から考えると、なにかがあったと考えるのが自然なようだ。それは後に述べる。

徳川家康が、人生最後の仕上げとして大阪攻めを狙っていたことは衆目の認めるところであったわけで、そのタイミングに合わせて、家康出陣後には空城(からじろ)同然となる江戸城を、大久保長安が千人同心を総動員して急襲・乗っ取り、東北では伊達政宗が蜂起し、大阪では真田父子が豊臣方に参じて連携するというプランが、もともと無かったとは言えない。豊臣秀頼の大阪城が健在である以上、伊達政宗が蜂起すれば、徳川体制はいきなり危機に陥ることは火を見るより明らかであった。

政宗にしてみれば、決起のタイミングは、家康が高齢で死ぬか、大阪が立つか、どちらが先かという二者択一になってきていた。表面的には磐石化しつつあった徳川幕藩体制も、実は一皮剥けば、伊達政宗という自ら暴発したくてしょうがない時限爆弾がいつ作動するかもわからないという、恐るべき波乱を内包していた可能性がある。

軍資金は長安の膨大なものが蓄財されている。池田輝政など豊臣恩顧の大名たちとも、縁戚を結んだ長安である。後は、大阪方がどの段階で意を決するか、どこで真田父子をはじめ、反徳川に燃える大量の浪人たちが大阪に入城するかだったわけだ。もしかすると、正宗は年齢からいっても、家康の死を待っていたかもしれない。実際、大阪の陣の2年後に家康は死去している。一方、家康にしてみれば、時間切れが迫っていた。うかうかしていたら、信玄のように、いま一歩のところで自分が死んでしまいかねない。政宗と家康、この緊張感のわずかな差が、家康に先手を打たせることになる。

その意味でも、上手は家康のほうだった。おそらく、この情勢というものをわかりすぎるほどわかっていたのは、家康であったろう。家康と、長安・政宗の息詰まる確執のバランスがこのとき実は頂点に達していたのかもしれない。そして、家康もまた、一気にこのリスクを封じ込めるタイミングを、探っていたに違いない。どんでん返しは、徳川家康の真骨頂である。

事態急変が起こる。大久保長安が倒れたのである。脳卒中であった。これは偶然であろうと思うが、伊達政宗や忠輝にとってみれば、青天の霹靂であったろう。ワイルドカードが、徳川による自分たちに対する切り札に早代わりしてしまったのである。

長安の死の直前、寝たきりになってしまった長安を家康が見舞っているが、なにがあったかわかったものではない。口も利けないほどになっていた長安に、家康が放った言葉は、もしかしたら「おまえに引導を渡してやる」ということだったかもしれない。あるいは、死に際だけは安心させておいたか、この辺はつまびらかではない。家康が長安をどう個人的に思っていたかにかかっているわけで、今のところは手がかりはない。

長安は1614年6月13日、死去する。毒を盛られ、死を早められた可能性もある。家康がじきじきに見舞ったのも、心配してのことではあるまい。なにか特別な意図がなければ、家臣の自宅にまで家康が赴くわけがない。

問題はその後である。それまでことあるごとに衝突していた大久保長安の主家である大久保忠隣など武断派と、本多正信ら文治派の長年の家臣団の権力闘争を、家康は利用した。

実際にあったか、なかったかは定かではない。本多らは、「長安に謀反の計略があった」ことを暴露。本多ら文治派による、大久保派(武断派)に対する讒言(ざんげん)である。内容はくだんの、「忠輝・政宗らと共謀して幕府打倒をたくらんでいた」というものである。この徳川幕府序盤最大の疑獄事件と化した「大久保長安」事件は、勢力関係を一変させることになる。

長安の罪状は、倉に武田菱の武器や毒酒が大量に備蓄されており、武田家再興を図っていたともされたが、時代錯誤も甚だしい。武田滅亡は32年前のことである。

この濡れ衣は、長安の本来の企てである『徳川幕府乗っ取り』という恐るべき罪状を、世間にそれと知られぬようにカモフラージュするためのものであったとしか考えられない。

長安に『徳川乗っ取り』をする計画が無かったのであれば、家康としては長安粛清の口実としては、ただ不正蓄財の濡れ衣だけで十分だったはずだ。

言葉を返せば、政宗・長安らが、忠輝を擁して幕府権力を襲奪する計略が「あった」ということの証左とも取れる。だから、それが露わになって、徳川体制も存外脆弱なものなのだと世間に認識されることこそ、家康が一番恐れたことだろう。

だから、根も葉もない、アナクロニズムとしか言えない『武田再興』などという嫌疑を仕立て、「長安だけ」を処断する策に打って出たのだ。

この結果、恐るべきことに、長安の7人の子息たちは、37歳から15歳まで、全員が斬首処刑。腹心たちも殺された。長安自身は埋葬から掘り起こされて、改めて磔(はりつけ)に処せられ、後に首は晒された。

長安と縁戚関係にあった大名や、関係の深かったものはことごとく処刑あるいは、改易、流罪となっている。池田輝政などは、長安より3ヶ月先に死去していたので、難を逃れた。

ところが、ここに不思議な一事がある。この事件がほんとうであるとするならば、もっとも断罪されて然るべき伊達政宗に罪が及ぶことはなかったのである。ましてや、松平忠輝も然りである。

幕府の体制を磐石のものとした最大功労者である大久保長安一族にすべての罪を負わせ、一党を根絶やしにしたことで、忠輝・政宗へ、無言の恫喝とも言えるくさびを打ち込む効果があったろう。

家康にしてみれば、長安存命中にこれを行なわなかっただけ、長安に対するせめてもの配慮をしたつもりであったかもしれない。しかし、時間はギリギリだったのである。

長安=忠輝=政宗ラインが、もしも大阪城や真田幸村とかねてからつながっていたとしたら、長安の死(1614年6月)の冬に、大坂の陣の幕が切って落とされているから危機一髪、絶妙なタイミングで謀略は潰されたことになる。家康にしてみれば、それこそ土壇場で形勢を一気に逆転させたわけだ。

このへんが、家康の巧みなところだろう。大阪の陣が目の前に迫っている中で、伊達政宗を相手に武力衝突をするのは得策ではない。まかり間違えば、死せる大久保長安の計略に自らハマることになりかねない。徳川・松平一族にも亀裂が入る。ここは、家康、生涯最後の我慢のしどころだった。両者ともに、お咎めなし。長安一人を悪者にして、事態を収拾した。ここで、事実上、勝負あったというところであろう。伊達政宗は、下手な動きが取れなくなってしまったのだ。

長安死去から1ヵ月で一族が捕縛され、7月には処刑が始まった。最終的には武田家の血を引く僧侶などにも塁が及び、翌年に伊豆大島に流罪となっている。

この大久保事件が突如として起こった直後、伊達政宗は、駆け込み的に支倉遣欧使節団の二度目の出航(前年は遭難して失敗)を強行している。時間が無くなったのは、政宗になってしまったのだ。

家康も家康で、事を急いだ。忠輝・政宗ラインには一指も触れず、まるで何もなかったかのように振舞い、一方では一気に大阪との決戦を強引に始めたのである。それが、大久保事件と同じ1614年の方広寺鐘銘事件である。

これは、完全な言いがかりであるが、徳川方は豊臣に叛意有りと激しく糾弾する口実とした。この事件は大久保事件(6月)の直後、7月である。一方で大久保一族を片っ端から処刑していきながら、片方では大阪を挑発したのである。

真田幸村が、大阪に入城し、大阪方の主力の一隊を担ったのは同年0月である。すでに、関が原合戦以来、徳川方についていた兄・信之と、その義父であり家康重臣の本多忠勝の懇請によって、死こそ免れていたが、父とともに配流先の九度山で10年以上が経過していた。この間、昌幸は憤死しており、幸村はわずかな家臣たちとともに幽閉先に沈潜していたのだ。

大久保長安と九度山の真田父子との間の、長きにわたる隠密の連絡・交渉があったかどうかはわからない。ただ、仮にあったとすれば、幸村は(すでに父は死んでおり)、長安=忠輝=政宗ラインが崩壊してしまった以上、もはや万事休すと思い定めたに違いない。

大阪から、ぜひ脱出して与力して欲しいという熱望に、死に花を咲かせたいという思いが触発されても無理からぬものがある。かねてから、長安や、政宗から計略が持ち込まれていたとすれば、なおのことである。白髪が増え、歯も抜けと、老余敗残のわが身を自嘲する幸村の直筆の手紙(姉の村松殿宛て)が残されている。

ことここに至っては、忠輝・政宗ともに家康に対してひたすら平静を保って恭順している以外にない。大久保一党が滅ぼされてしまった以上、八王子千人同心も機能しない。

政宗が仙台で、豊臣=幸村が大阪で蹶起したとしても、肝心の江戸城本丸の急襲・奪取という実働部隊が、まるごと消えてしまったのであるから、どうにもならない。

そして戦国時代の幕切れとなる、最後のクライマックス、大阪の陣が始まる。1614年11月の冬の陣、15年5月の夏の陣である。夢破れた伊達政宗は、不本意ながら、参陣することになる。しかも、あろうことか、伊達隊と真田隊の激突という劇的な場面を歴史は用意した。歴史の女神も、意地の悪いことをするものだ。

(続く)

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