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「ドライブ・マイ・カー」を語ってわかった、多様な映画解釈のすばらしさ 【シネマのレンガ路】

つい先日、zoomで映画について語らった。

僕のように地方在住でも、インターネットを通じて顔を見ながら話せる。それは、あのウィルスがもたらした本当に本当に数少ない良かったことだと思うのだ。

おい、調子にのるな、あのクロン。褒めてないぞ。そろそろ身の振り方を考えろ。

相手は数年来の付き合いになる、気心がしれたメンバーだ。映画観を信頼し合える相手。

テーマは、「ドライブ・マイ・カー」である。公開は2021年の夏だが、賞レースに先駆けて再上映が始まり、僕もようやくこのタイミングで見られたのだ。

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出典:映画.com

(暢気にこの記事を書いていたら、米アカデミー賞4部門ノミネートのニュースが入ってきた。なんというタイミングか)

評判通り、いや、それ以上の出来だった。

これは語らねばと、メンバーに声をかけて集まったというわけだ。

いまさら説明は不要だろうが、「ドライブ・マイ・カー」は村上春樹の同名短編小説を、濱口竜介が監督・脚本で映画化したものだ。(脚本は、大江崇允との共同名義)。

僕は結構な村上春樹ファンだったりする。とくに、19歳の浪人中から、20代前半の大学生活は、貪るように何度も読んだ。やれやれ。『ノルウェイの森』の緑は理想の女性のひとりだ。緑のいう「大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかなのよ」という言葉は、人生の指針になっている。

ある時、大学の中庭で村上春樹のエッセイを読んでいると、男に声をかけられて友人になった。なぜ声をかけたのか聞くと「村上春樹のエッセイまで読んでいる男なら、信頼できると思ったんだ」と答えたのをよく覚えている。小説のシーンみたいだなと思った。

なので「ドライブ・マイ・カー」にはいささか不安もあった。過去の映像化作品が必ずしも良いとはいえなかったから。あの小説世界を映像化するのは難しいんだろうなと思っていたのだ。

しかし、スクリーンの前で3時間を過ごした後、なんとも幸福な気持ちになったのだ。「ああ、俺は村上春樹の小説世界を観たんだ」と。

映画と原作を比較すると、大きく脚色されたことがわかる。多くのシーンは映画のために追加されたものだ。『ドライブ・マイ・カー』が収録された短編集『女のいない男たち』の他の短編からも要素をとってきているらしい。

それ以外にも、「ドライブ・マイ・カー」に、夢中で読んだ村上春樹的なものをたくさん見つけられた。

前置きが長くなってしまった。

ここで、タイトルの話になる。「ドライブ・マイ・カー」を語っておもしろかったのは、僕の解釈や良いと思ったところに、まったく逆の解釈をする人もいたことだ。もちろん、どちらが良いとか悪いということはないと断っておきたい。

ここからは具体的なシーン・ポイントについて、どんな解釈が出たのかを語っていきたい。

■ネタバレするので、未見の方はご注意ください■

「ドライブ・マイ・カー」は「想いが伝わる」についての映画である

「逆の解釈」について語る前に「同じ解釈」について書いておきたい。

「ドライブ・マイ・カー」は、共通言語を持たない者同士がコミュニケーションしていく話でもある。人種・言語の異なる役者で作られるベケット、チェーホフの戯曲。その中には、そもそも言葉が「音」として届かない人もいる。

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出典:映画.com

コミュニケーションするのは、人間同士だけではない。人と犬。人と自動車。もはや生物ですらない。

おもしろいのは「ドライブ・マイ・カー」において、深く温かくコミュニケーションできているのが言語を介さない者同士であるということ。

その象徴は、韓国人通訳コン・ユンスの家庭だろう。言葉も文化も異なる土地で暮らすコン・ユンスと、聾者のイ・ユナ、そして愛犬。ささやかながら温かい家族と、家福・みさきの食事シーンは、劇中もっとも親密であたたかな空気に溢れている瞬間だ。

言語という当たり前の伝達手段を使えないコン・ユンスたちは、だからこそ互いに歩み寄りながら想いを伝えあおうとしている。そんな風に思えた。それは家福にも影響を与えたのか、みさきの運転を「言葉で」褒める。家福とみさきの関係性が加速するきっかけになるようにも思えた。

一方、家福と妻・音の夫婦はどうだったか。深く愛し合う家族で、心が通った友人でもあった。家福は、音の声でセリフを聞きながらハンドルを握る。男女の身体の相性だって良い。コミュニケーションになんの不自由もないはずの2人。しかし、2人の間には、深い溝が存在していた。

溝を認識しながら、ついぞ言葉にできないまま永遠に音を失ってしまった家福は自分の心と向き合えなくなる。なんとも皮肉な話だ。

家福とコン・ユンスの家庭の対比は、言語によるコミュニケーションのどんづまりと、だからこそ際立つ「想い」の存在を明らかにしてくれる。

この点において、解釈や評価が異なる人はいなかった。お互いの解釈を持ち寄り、深めあえたように思う。

家福の心情の吐露についての、解釈の吐露

さて、ようやく本題である。「ドライブ・マイ・カー」の完璧とも思える脚本において、ある1点に不満があるという人がいた。

それは、北海道上十二滝町のシーン。

高槻の事件のせいで、ワーニャを演じるしかなくなった家福。それでも迷う家福は、みさきと愛車と共に北海道に向う。みさきの家の残骸の前で、家福の涙と言葉が溢れだす。

自分が苦しんでいたこと、悲しかったことを妻に言葉にすれば良かった。 でも、それはもうできない。その機会は永遠に失われてしまった。

このシーン、ここまで家福が言葉にする必要はなかったのではないかというのだ。家福を見てきた観客には、言葉にせずとも伝わるだろう、と。

言われてみれば、たしかにその通りだと思った。

しかし、僕はその解釈を聞くまで微塵もそう思っていなかった。むしろ、あそこで堰を切ったように吐露する家福にもっとも心を動かされた。

妻の情事の現場を目の当たりにしても言えなかった言葉。つらい、悲しい。その言葉を、広島から北海道まで行き、自分の娘と同い年の女性の喪失の現場を目の当たりにしてようやく言えた。そうまでしないと言えなかった。

しかも、それを伝えるべき相手は永遠に失われてしまった。はっきりと、滑稽である。そして、あまりにも切ない。

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出典:映画.com

大事なことに気づくのは、大概が手遅れになってから。センチメンタルが過ぎるシーンに、村上春樹の小説を強く感じたのだ。

各々の解釈や感想にどうこう言いたいんじゃない。

ひとつの映画の、ひとつのシーンに感じることは人それぞれで、それを交換できることが素晴らしいと思ったのだ。映画の体験として、これ以上のものはなかなかないだろう。

同時に「ドライブ・マイ・カー」が、見た人の心を動かす映画であることを実感した。世界の賞を獲るのも納得できる。

これを読んでいるあなたは「ドライブ・マイ・カー」にどんな感想を持っただろう。いつか飲み屋で聞かせてほしい。

だから、あのクロンよ、そろそろ身の振り方を考えろよ。


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