【シネマのレンガ路】 「ラストナイト・イン・ソーホー」評 今も変わらず存在するクソ野郎共への〇ァック オフ
憧れは、理解から最も遠い感情だよ
漫画『BLEACH』のセリフです。穏やかで優しいと憧れていた上司が裏切り者だったと判明するシーンで使われました。
『BLEACH』(集英社)20巻より
「憧れ」は、前に進む原動力であると同時に、眼差しを濁らせもします。見たいようにしか、見られなくなる。
エドガー・ライト監督最新作「ラストナイト・イン・ソーホー」。憧れた世界の闇に翻弄される2人の女性の、美しく恐ろしいサスペンススリラーです。
画像出典:映画.com
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この記事はネタバレを含みます。
未見の方はご注意ください。
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主人公のエロイーズは「60年代オタク」のファッションデザイナー志望の女の子。
映画は、エロイーズが新聞紙で作ったドレスで廊下を歩くシーンから始まります。音楽は、ピーター&ゴードン1964年のヒット曲『World Without Love (邦題:愛なき世界)』。
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「お、ビートルズか」と思いました。でも、違うんですね。ビートルズではないんですが、作曲はポール・マッカートニー。「Lennon-McCartney」名義です。
ピーター&ゴードンのメンバー、ピーター・アッシャーの妹、ジェーン・アッシャーが当時、ポール・マッカートニーと付き合っていたことから楽曲提供が実現したんだとか。
しかしあれですね、「妹の彼氏がポール・マッカートニー」って何度生まれ変わって言えない強さがありますね。今なら「妹の彼氏が星野源」みたいなものでしょうか。だとすると、妹がガッキーですね。そうか、妹はガッキーか。星野さん、結衣を幸せにしてやってください。……僕は何を言っているのでしょうか。
エロイーズの部屋は60年代の文化に溢れています。彼女の「憧れ」が詰まっています。音楽はレコードプレイヤーから流れ、壁には「ティファニーで朝食を」(1961年)のポスター。
1976年生まれの監督自身、小さい頃から60年代の音楽を聴き、当時の文化に憧れを抱きながら育ったそうです。
その後の展開から「闇」に目がいきがちですが、60年代カルチャーの素晴らしさ、「輝き」も確かに切り取っています。その両面性が魅力であり、映画のテーマでもあります。
たとえば、「ティファニーで朝食を」。あまりにも有名なオープニング。早朝のNYの5番街、ティファニー本店前でコーヒー片手にクロワッサンをかじるオードリー・ヘプバーン。流れるのは『ムーン・リバー』。甘くロマンティック。完璧です。
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しかし、その後の展開から分かるように、甘いだけではない。ヘプバーンが演じるホリーは、夜明けまで何をしていたのか。直接的には描かれないこととヘプバーンの美しさに隠れていますが、心から笑っていなかっただろうことは確かです。
当時の、特別とはいえない出自の女性が裕福な暮らしをするために何をしなければならなかったのか。その影が「ティファニーで朝食を」に刻まれています。
しかし、地元で60年代に「憧れて」いただけのエロイーズは分かっていなかったですよね。僕も分かっていませんでした。
「ラストナイト・イン・ソーホー」という映画は、エロイーズの視点と体験をとおして、「ティファニーで朝食を」など60年代の作品・価値観に対する批判的な視線が具現化されています。
ダイアナ・リグ、テレンス・スタンプ、リタ・トゥシンハムなど、60年代から活躍している俳優をキャスティングしていることにも明確な意思を感じるところです。(ダイアナ・リグは、本作が遺作となりました。映画の冒頭で「ダイアナに捧ぐ」と出るのは、そのためです。)
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「過去の映画から膨大な引用を用いて映画を作る」。これは、エドガー・ライト監督作品に共通した特徴ですが、それを映画を作るためだけではなく批判的な視点を持たせるために使っているという点で、新たなレベルに達しています。構造とテーマ的には、タランティーノ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」に近いものがあります。
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憧れのロンドンで待っていたもの
夢見たロンドンで暮らし始めたエロイーズ。しかし、タクシー運転手の言葉と視線にはじまり、彼女の「憧れ」は徐々に崩れていきます。女性にとって、タクシーでの感覚が「あるある」なのだとしたら、同じ男として暗澹たる、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
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図書館のメガネの男も、かなりやばかった。
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映画全体を通してそうなんですよね。エロイーズやサンディが体験したことを「最低クソ野郎のしたこと」として書く資格が男性の僕にあるかどうか、正直自信はありません。
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いきなり心象をぶっちゃけてしまいましたが、進めます。
「現代」のロンドンに居場所のないエロイーズが見つけたのは、ソーホー地区の古びたアパートの一室。「やっぱり私には60年代なんだ!」と居場所を見つけたものの、サンディの悪夢に蝕まれるようになります。
ソーホーのアパートと実家の部屋。ネオンの赤と青。60年代のポップスと現代のEDM。鏡に映るエロイーズとサンディ。憧れと現実、過去と現在、光と闇、男と女、女と女。対比の描写が匠に使われました。
「オールドボーイ」や「お嬢さん」などパク・チャヌク監督作品に多くかかわった撮影監督チョン・ジョンフンが手掛けた画面も切れ味抜群です。
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悪夢が待っているとはいえ、最初の夜は「憧れた60年代」そのもの。
オープニングからモノラルだった音響が、路地を抜けてサラウンドになる時の高揚感は最高です。エロイーズの気持ちとシンクロするようで、映画館だから味わえる瞬間ですよね。
1965年であることを示すために「007/サンダーボール作戦」の看板が使われていましたね。ミス・コリンズを演じたダイアナ・リグは1969年の「女王陛下の007」でボンドガールを演じていました。1960年代の007における女性の扱われ方を考えると、単なる時代の表現ではないテーマとの関連性を感じます。
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007自体が「ノー・タイム・トゥ・ダイ」でシリーズの女性観を自己批評していたことを考えると、2作が同じ年の公開になったこともめぐり合わせでしょうか。
「カフェ・ド・パリ」でのエロイーズとサンディの出会い。2人が次々と入れ替わりながらジャックとダンスするシーンは、クラクラする素晴らしさでした。あそこは、かなりアナログに撮影されたみたいですね。メイキング動画で確認できます。
エロイーズはサンディからインスピレーションを得た服で、サンディはジャックの導きで「憧れ」の世界に飛び込めるかに思えた2人。しかし「闇」に飲まれていきます。
サンディがオーディションで歌った「恋のダウンタウン」。孤独も悩みもダウンタウンにいけば忘れられると歌っていますが、やはり「欲望」もセットなわけです。
スウィンギング・ロンドンと言われ、1960年代中盤まで「性の革命」の中心だったロンドン。
サンディがバーレスクで踊らされたのは、サンディ・ショーの「パリのあやつり人形」。この曲について、エドガーライト監督は以下のように語っています。
サンディという役名はサンディ・ショーから名付けた。サンディは騙されてダンサーにされて怒りを隠せないまま踊る。そのシーンの曲を『パリのあやつり人形』にしようと思いついた。あの曲を歌わされたサンディ・ショーは『これは女性蔑視の歌よ』と言って嫌っていたんだけど、彼女のいちばんのヒットになっちゃった。複雑な気分だったと思うよ。それだから、あのシーンには完璧にハマったね
出典:「現代の女性が60年代の女性を救う」エドガー・ライトが描きたかったロンドンの“闇の底”(CREA)
エロイーズが図書館から街へ逃げ出すシーンでもサンディ・ショーの曲『(There's) Always Something There To Remind Me』が使われました。
原曲は明るい曲調なんですが、サントラ盤だと緊迫さが加わった巧みなアレンジであることがわかります。
やがて明らかになる真実。ミス・コリンズが男たちを殺し部屋の床や壁に隠してしまっていた。
壁や床から手が出てくる演出はロマン・ポランスキー監督の「反撥」(1965)の引用です。「反撥」からは演出だけでなく「男性の性的な視線で心が崩れる」というテーマも引用されています。テーマを引用するために、手法を引用していることがわかります。
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「反撥」のワンシーン。カトリーヌ・ドヌーヴが美し恐い。
監督は「反撥」をはじめとした25の作品を、今作の引用元として公開しています。気になる作品は見てみると良いと思います。僕も、見ます。
しかし、なぜミス・コリンズは部屋を貸し出していたんでしょうね。死体と隣り合わせの部屋って、特殊能力がなくたって異変が起きそうなものです。
隠し通すなら、人がいない方がいいにきまっています。
やっぱり「気づいてほしい」「救ってほしい」というサンディの想いなんでしょうかね。だからこそ、エロイーズは亡霊の「あの女を殺せ」という願いを拒絶し、炎のなかからミス・コリンズに手を差し伸べたんだと思います。「救って」という心の叫びに気づいたから。
エロイーズの1960年代への「憧れ」は砕かれたはずです。それでも彼女は60年代テイストの服を作りつづけた。裏道の闇も知って、それでも「好き」でいることを選んだんですよね。「憧れ」から「理解」に近づいたんだと思います。
今は、好きなものの暗い面も見えやすい時代です。その時、「好き」という気持ちをどうするか。
裏切られたと切り捨てるのも正しいでしょう。それでも好きでいるのもまた正しい。「理解」は「盲信」とは違う。正面から向き合い、覚悟を持って決めたことだと思うから。
エロイーズは言うでしょう。「1960年代のカルチャーは素晴らしい。私を救い、たくさんのインスピレーションをくれる。一方、あの頃は.....」と。
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サンディの味わった地獄は、今も存在する
「ラストナイト・イン・ソーホー」で僕がいちばん好きなのは、ブリーフ一丁の亡霊たちから「俺たちのためにあの女を殺せ」と言われて「イヤよ」と言い切るシーンです。
死して尚、女性を自分の欲望のための道具として使おうとする男たちの要求を切り捨てる。男たちは殺害された被害者でもあるのに。
「あ、これプリキュアだ……」と思ったんですよね。
シリーズ17作目にして15代目プリキュア「ヒーリングっど♥プリキュア」。2020年〜2021年にかけて放送されました。モチーフは、お医者さんと花。敵の「ビョーゲンズ」は、病気のメタファーです。娘が見出した初めてのプリキュアなので、一緒になって熱心に見ていました。
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その42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」。のどかとは、主人公でキュアグレースに変身する女の子。のどがが対峙するのは、敵の幹部「ダルイゼン」。ダルイゼンは、のどかの病気から生まれたビョーゲンズなんです。
42話では、弱ったダルイゼンが「僕を助けてくれ、のどかの身体に戻らせてくれ……」と懇願してきます。受け入れれば、ダルイゼンは助かりますが、のどかは病気に苦しむことになります。
相手が敵(病気)とはいえ、弱った命に手を差し伸べるかどうか。のどかの決断は「否」でした。
のどかは言います。
ダルイゼン、あなたのせいで私がどれだけ苦しかったか。あなたは全然分かってない。分かってたら地球を、たくさんの命を蝕んで笑ったりしない。都合のいい時だけ、私を利用しないで。私はあなたの道具じゃない。私の身体も、心も全部、私のものなんだから!
「ヒーリングっど♥プリキュア」
42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」より
これ、プリキュアのセリフなんですよ。「ラストナイト・イン・ソーホー」でもそのまま使えそうじゃないですか? リアルタイムで見た時、衝撃を受けました。
「女の子向け」アニメでこここまで言うんだって。
42話の展開について、シリーズ構成を手がけた香村純子さんは雑誌『アニメージュ』でこのように語っています。
「女の子だから」という括りだけで、自分の意志や気持ちを無視されて「優しさ」を求められたりとか。近年の「プリキュア」では、敵と和解して彼らを救済する結末が続いてきていたと思うんです。それは本当にいいことだと思っています。ただ、時にそれが、今の世にはびこる女の子への社会的圧力や扱い等と合体すると、それは女の子たちを追い詰めてしまうこともあるかもしれない、と。無意識に「女の子だから優しくしなきゃいけない」という強要にすり替わって、悪いヤツにつけ込まれて酷い目にあったりしないかしらと。
『アニメージュ』(徳間書店)2021年3月号70ページより
1960年代のロンドンと、2021年の日本も、おんなじじゃないですか。「夢のために必要」「女の子だから」につけこみ、女性を道具のように扱うブリーフ一丁の男たちは今もいるんですよ。
香村さんは続けます。
女の子はなんでも受け止めて何でも許してくれる女神ではありません。観てくれている小さな女の子たちにも、今まさにダルイゼンみたいな存在がいないとも限りません。日常の中で、女の子だからとつけ込まれてしまったり……。そんな時に、「自分を一番大事に思っていいんだよ!それで何か責められたとしても、プリキュアはあなたの味方だよ!」って、そういうことを伝えたくて。
『アニメージュ』(徳間書店)2021年3月号70ページより
「ラストナイト・イン・ソーホー」は、紛れもなく今を生きる女性のための映画です。どんな状況だろうと、自分を蔑ろにしてくる、道具として利用してこようとする野郎には遠慮することはないんです。
精一杯汚い言葉で罵ってやればいいんです。
うせやがれ!
そして、僕自身は自分の中の「ブリーフ男」を、その価値観を殺す努力を続けないといけないと改めて思い知りました。自分の中に「ブリーフ男」が潜んでいる。それこそが、本当のホラーなんですから。
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