さびしんぼうの女の子 〜 little girl blue

私がとても若かったころ、世界が私より若かったころ 
世界は 回転木馬みたいに楽しくて
サーカスのテントは 空いっぱいの星たちに吊られて
くぐり輪の上に そこは私の大好きな場所

でもそんな世界は もうすっかり古びてしまって
ピカピカもきらきらも どこかへ行ってしまった

そこへ座って 指折り数えて
「私に 何ができるんだろう?」って
もう若くはない女の子 これで終わり 
そこへ座って 小さな指を 指折り数えて
ついてなかったのね さびしんぼうの女の子

そこへ座って 雨つぶを数えて
降り注ぐ 雨つぶを
そろそろ 分かってもいいころ
あてにできるのは 雨つぶだけってことに
降り注ぐ 雨つぶだけ さびしんぼうの女の子に

もうきっと無理 もう若くはない女の子だから
そろそろ あきらめたほうが良さそう
望みは どんどん薄れていく
誰か連れてきて やさしい さびしんぼうの男の子を
なぐさめてあげて さびしんぼうの女の子を 
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以上、”Little girl blue” を【超•ゆき訳】しました。
この曲も、多くのジャズスタンダードナンバーと同様、元々はミュージカルのために書かれたもの(L. Hart 作詞・R. Rodgers 作曲)。ですが、ニーナ・シモンやジャニス・ジョプリンの歌があまりにも良く知られていて、この曲に Verse(コーラスに入る前の、言わば導入的な "語り" の部分)があること、多くのジャズミュージシャンに愛されている曲であることを、私はずいぶん後になって知りました。

切ない歌詞です。曲について調べていたら、どなたかが「落ち込んでいる少女に、落ち込んでたって仕方ないよと諭す」ような歌だと評しておられましたが、私は、それは違うと感じました。いやもしかしたら、元々のミュージカルのシーンは、そんな場面だったのかもしれません。でも私がこの曲から感じ取るのは、もっと別のことです。憂鬱で、切ないのは、もはや少女ではない、大人の女性なのでは?もういい大人であるはずの彼女が、自分自身のなかに居る少女に向けて語りかけている歌なのでは?私はそう感じました。

指折り数えても仕方ない。ただ、雨つぶだけが彼女のそばにある。小さな指をじっと見つめ、降る雨をじっと見つめる少女。言わば、大人の女性のなかに居る「インナーチャイルド」についての歌なのではないか、と私は解釈します。だからこそ、彼女が必要としているのは "Little boy blue" なんですきっと。彼女には、それが分かってるんです。現れるといいですね、やさしい、彼女とおなじ、さびしんぼうの男の子が。

ニーナ・シモンも、ジャニス・ジョプリンも、Verse は歌わず(特に、ニーナの場合は、クリスマスキャロルを前奏に用いており印象的)よりいっそうやるせなさを感じます。

もうひとつ、あえてのチェット・ベイカーを。私はこの曲の Verse もすごく好きなんですけど、ここではピアノで演奏されています。


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