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青天の霹靂的相続トラブル〜その1・気配〜

大変ご無沙汰しておりました。
5月18日に父が他界し、先日四十九日法要も終わり、ひと段落…と思った矢先、弟(夫婦)による遺産トラブルが勃発いたしました。
それはまるで、YoutubeのDQN成敗スッキリ系アニメのような、家族間泥沼の昼ドラのような。
ここに、これまでの経緯と現状をまとめたいと思います。


ことの発端と怪しい流れを感じた1月

それまでは、本当によくやってくれるできた嫁、そしてそんな嫁をもらえて弟はよかったなと心底思っていました。
これは昔から友人に話しているので、今思いついた話ではありません。
しかし、1月に入ってから、どうも雲行きが怪しくなってきました。

母はその当時、骨折で入院中でしたので不在でしたが、私が東京から札幌に帰省している時に、末期ガンの父、弟夫婦、私の4人で話すことになりました。
それは「今後のこと」。
弟は「母が退院したら介護が必要だし、2人も見れない。自分たちは家もあるしここには住めない。だから(姉)は帰ってきて介護すべきだ」という主張。
そのこと自体は完全な間違いではないですし私も考えないわけではないですが、仕事的に穴を開けるのが非常に困難であり、引き継ぐにしろ、人を育てるには時間もかかる、それに母は最低限の生活は自力でできるようにして帰ってくるためのリハビリをしているので、今すぐに帰る判断はできかねるという話をしても、私を否定するだけで聞く耳は持たれませんでした。
さらに私を不快にさせたのは、不在の母を「あの人は何も考えてない」「気分屋で散財する」「頭が悪い」と、父と弟が散々小馬鹿にしていたことでした。
その場では「その言い方はやめて」と言うに留めましたが…
あとは、父の葬儀の話。
これが一番嫌でした。
まだ生きている父の前で「そう遠くないうちに死ぬんだから」と発した時は背筋が凍りました。

後日、私が東京に帰って、弟から「LINE電話で話したい」との連絡がありました。
(この時、母はまだ入院している)
指定してきた日は私が用事のある日で、最初は調整してくれませんでしたが、なんとかねじ伏せて日を変えて話しました。
ここでも話題はまず葬儀。
ここでやる、と決め打ちだったので「今から決め打ちしなくていいのでは?いくつか検討するのはいいと思うけど」と伝えると、逆ギレ気味に「じゃあお前も調べろ」というので、私は私で後日ゆっくり整理することとしました。
あくまで自分の中で。

その後、今度は嫁から「お母さんのお金、少ない。これじゃあ後々困る。使途不明金がこんなにある(決して使途不明ではなく理由がある)。今後は私たちが管理します」と宣言するので、「管理が悪いわけではないけど、母の意向も汲んでほしい」と伝えたところ、よよよと泣き出し「私、お義母さんにひどいことしてるのかも…」というので「いや、よくやってくれてることは、母も感謝してるよ」と宥めることに。

結局、どっちも「なんだかなぁな」話の内容で終了。
この辺りから、弟夫婦の態度が徐々に怪しくなってくるのです。
それを感じたので、最後に、過去に精神を壊した(記憶障害になった)ことのある母だから、精神的に追い込まないでほしいと話しました。

母の退院と弟の錯乱

2月末に母が退院しました。
前日に札幌に帰省し、ここから毎月1週間ほど札幌での在宅ワーク=二重生活を開始することとなりました。
理由は、弟家族の怪しい動きへの牽制と母のサポートです。
母が12月に入院してから「お義父さんの介護を2ヶ月半してきました!」という割に、自分たちのあまりもの、レトルトの食品が食卓を埋めて、掃除も何もされていない部屋の惨状を見ていたので、せめて1週間くらいは父母の手足になろう、と考えました。
(週2〜3回、届け物&銀行作業をする程度の介護とは何でしょう)
この期間はリモートでも作業できそうだ、という都合もありました。
会社の人も快く協力してくれました。

母の退院は従兄が車を出してくれて、私が行くこととなりました。
それはいいのです。
そのために帰省したのですから。
弟は、その日の夜にうちに来ると言っていました。
しかし、20時過ぎまで何の連絡もなし。
父は18〜19時には床に着いてしまいますし、まさかこれからは来ないよねと、母もそろそろ寝ようとした時に、弟から父へ連絡が入りました。
「これから行く」と。
寝入り端を挫かれた気分で待っていると、到着早々に「(嫁)から『私たちがすべて管理するか、絶縁か、答えを持って帰ること』と言われてるから、手ぶらで帰れない」と宣言。
この時点で空いた口が塞がらないのですが、その後、私が今の仕事を辞めて札幌に帰らないこと、葬儀も自分たちの思った答えが出てこないことなど、思い通りにことが運ばないためどんどんヒステリックになり、末期ガンの父親の真横で怒鳴り、私をなじり、机をバンっと叩いたかと思ったらひっくり返す…(この時、初めて生のちゃぶ台返しを見て、すごい小物は飛ぶなぁと思ってしないました)。
2時間近く、ほぼ1人で喋り、「もういい。じゃあ、全部自分たちでやれ。こっちに頼ってくるな」というので、母も私も「うん、いいよ」ということで、絶縁モードを選ぶこととなりました。

その時、「嫁の母からの手紙だ」と、活字で書かれた手紙(というか、プリント用紙)を私たち3人に渡していく弟。
内容は、私をとにかく否定・非難する内容(後述しますが、いずれアップします。侮辱ともとれる内容です)。
活字で2枚にわたり書かれた手紙の最後は「『この御礼は追々』と娘へお話しされたようですが、何をしようとお考えですか?教えてください」で締め括られていました。
最低最悪な姑、と罵られた後にです。

この時、手紙からは「¥」しか見えてこない気持ち悪さでしたが、弟に「感想だけ聞いてくわ」と言われた時には言えませんでした。
悲しすぎて。
無言の私たち3人を放置して、弟は帰りました。

発言は何度でも覆る(それの失礼な方向へ)

そんな弟の錯乱を受け、とはいえ一旦弟家族が来ないのであれば、少し平和いに過ごせるだろう、母は自分のやりたいように家のことをやれるだろう、とほんのり安心して東京へ戻ったのですが、「絶縁」を宣言してから1週間も経たないうちに実家に弟夫婦がやってきたと母から連絡がありました。
そのあまりの早さに驚愕しましたが、あの日「俺ら、特に嫁や娘に迷惑かけることがあったら許さない」と声を荒げてたこともあり、私には連絡を取れないようにさせてもらっていたので、ひとまず母の対応を聞きました。

父は母の退院以降、少しずつ体調が崩れていました。
それは、母の入院中は多少胃痛などがあっても我慢し、父の兄から入院を勧められても「家を守らないといけない」と言ってとにかく1人で頑張っていたこと、母が帰って張り詰めた気持ちが少し解けたこと、さらにあの弟の畳みかけるような葬儀話と怒号、そしてあの手紙。
安堵に苦痛が重なったのでしょう。

弱気になった父は母に、弟家族に管理をお願いするようにと言ったそうです。
でも母は、徐々に弟家族を信用できなくなっていたため、今はお願いしないと宣言したそうです。
その時が来たらお願いする、と。
確かに、家のことは普通にできますし、介護も介助も必要ないほどに回復していました。
遠くの手続きや重いものの対応は、私が月イチで帰って対応することになっていますし、今は頼まないといけないことない。
さらに、その時に「娘たち(私の姪っ子)には、『もうゆきちゃんには一生会えないからね』と伝えた」宣言もしていたそうです。
そんな人を信用できるでしょうか?

自分たちに迎合しない母にイライラしながら、それからはさほど実家には近づくこともなくなりました。
そのうち、父が入院することとなったのです。
それはガンのためではなく、めっきり食事を取れなくなったので栄養剤を流す管を通す手術でした。
その時はさすがに弟たちも病院に行き、医師の話しを聞き、コロナ禍でもあったので面会できる登録は母と弟となりました。

この時は、それまでいろいろなことをされていたにも関わらず、母は弟に期待していたのだと思います。
デリカシーを身につけてくれること。
思いやりをまずは持ってくれること。
それだけを。

しかし、その想いはことごとく裏切られていきます。
それは次回に続きます。

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