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すぐに読めないnoteに出会うと #感想note

ココロの準備ができないと、読めないnoteやコトバがあります。本気で想いをぶつけているコトバには、本気でわたしも向き合いたいと思うのです。

ゆうこさんに言われて
この記事書いたの思い出した。
最後にコトバに対する
思いがあるから読んでみて。

まだ私と出会う前に綴った、昔の記事を教えてくれたヒトがいます。嬉しかったからすぐに「読みます」って返事をした。だけど、そのページを開いた瞬間、今は読めないって思った。

ちょっと生半可な気持ちで読めない気がしたので
ちょっとタイミングみますね

その時と、同じ感情を抱いたnoteがありました。

いろんな人が既に感想をのべているツイートを見て、読みたいけれど、今は読めないって思った。直視するなら、私も直視できる態勢が整った状態で読みたいと思った。タイトルだけで、今は無理だって思ったのだ。



解像度を高めたら良きかもですね

ひらやまさんにかけてもらったコトバ。そのコトバを受けてから、自分だけが見えてきた景色の解像度を高めて描き始めた。

そしたら、いろんな過去の辛かった経験がどばどば溢れ出てきて、怖くもあり、だけど、描かないとスッキリもしなかった。

そして、描いた後は、どうしようもない疲労感に襲われる。ぐったりとする。ラクロスで言うならば、1試合戦った後の疲労感。

自分の過去と向き合って、その時の感情ともう一度向き合って、コトバを紡いでいくことは、体力がいることかもしれない。




だから、マミコさんのコトバを見たときに、とてもココロが痛かった。描いてくださって、教えてくださって、ありがとうございますの気持ちと、疲れていないかな。。。という心配と。。。



わたしも、いろんな辛い過去がある。思い出したくない過去もある。たくさんのヒトを傷つけてきた。自分自身がコトバをナイフにしていたし、コトバのカッターで、いろんな人を切り裂いてきたこともあったと思う。

だからこそ、今はコトバをとても大切にしたいとも思っている。


良かれと思って伝えたことでも、時に受け手を傷つけていることがあることも学んだ。結局誰かの期待に応えたい想いが強いわたしは、その人に向き合おうと思っていて、苦しくて人に寄りかからせてもらった。

もうyukoさんは傷ついているから無理せず

そんなコトバをかけてもらった時に、ハッとした。

そっか....傷ついたか傷つかなかったかは
わたしの価値観で良いのか....




数え切れないほどの迷惑を被ってきて、自分まで巻き込まれておかしくなってしまいそうだった。当人が改善しようと努力するそぶりは1ミリも見られなかった

このコトバを見た瞬間に思い出したことがある。思わずツイートしていた。そしてツイートだけでは伝えきれないと思って感想noteを描いている。

マミコさんのnoteを拝読して思い出した景色があります。

全然違う状況ですが、不倫をしている友達に振り回されそうになった時は、一時期連絡を遮断した経験があります。「わたしと会ったり連絡するのは、わたしが疲れるからやめたい」って伝えてました。自分も巻き込まれておかしくなりそうだったんです。本人は叶えられない恋を望んでいたから、もうどうしようもないなと思って、断ち切りました。

そしたら、しばらくしてから、本人から、その人と関係を断ったからご飯行こうって言ってもらえました。

本当のやさしさってなんだろうって、最近ずっと考えていますし、一生たどり着くことはなく変化するものだと思いますが、自分の命を自分で守ることは、勇気のいることだけれど、何も悪いことをしていないと最近想うのです。

読ませていただき、ありがとうございました。そして、このコトバを綴った自分をいたわってください。。。相当なエネルギーをかけて描ききったんだと勝手ながら想像いたいました。


そして、マミコさんが最後に綴っていたこのコトバがすごく素敵でした。


あの人の感情を理解することは、おそらく一生できない。だからせめて、あの人に何が起こっていたのか、何がそれを引き起こしたのか、社会のどこかで似たようなことが起こっているのなら、その因果や構造を知りたいと思うようになった。

いくら理屈で納得しようとしてもこびりついて離れない罪の意識を、この先少しでもマシな形に昇華することができるなら。

すべてを解き明かし救うことはできなくても、愚直に学び、考え続ける。
無力でも、せめて、直視する。


そのヒトが取った行動は
そのヒトだけの責任なのか
社会構造の問題もあるのであれば
失敗や過ちに対して
当本人だけを責めても
何も生まれないのではないか


最近そんなことを強く思い始めてきました。現実を悲観していても何も生まれない。悲しむ時間やココロを癒す時間はもちろん大切だけれど、少しココロが落ち着いて、動き出せる勇気を持てたら、起きてしまったことに対して、自分なりにできることを小さいながらも進めていきたい。



今朝たかれんさんのツイートを見て、感想noteって素敵だなって思ったのです。

実際、わたしが描いているnoteは、誰かと話したり、誰かと何かをする中で、抱いた悲しみや辛さや喜びや感謝の気持ちだったりしている。誰かと触れ合ったことで生まれた自分の内なる感情を、コトバにして表現しているのだ。

それは自分のココロから溢れてくる、ぐるぐるした想いをコトバにすることで、少しだけスッキリしたいと想う自分のエゴと、その気持ちを抱かせてくれたヒトへの感謝の想いを綴っている。

わたしが描くnoteには宛先があることが多い。感想noteであれば、そのヒトに向かって届けることができる。

どうしても「どれだけのヒトに読んでもらえたのかな」「どれだけスキがもらえたかな」と想ってしまうことはある。人間だもん。承認欲求はわたしも強いから、気になることもある。だけど、届けたいヒトに届いたことがわかれば、わたしの承認欲求は満たされるのだなと最近思った。

ただ、届けたいヒトにまだ読んでもらえていない時間は、もどかしいことも気づいた。寂しがりやみたいだ。苦笑

このnoteの宛先は三人います。
マミコさん、そして昔のブログ記事を読ませてくれたヒト、そして感想noteというアイデアを教えてくれた、たかれんさん。

あとは今日、個人的に相談にのってもらった方々。ほんとうにありがとうございました。


写真は、今旅にきている長野県の善光寺の参道。
こんなコトバを綴っていました。

今は、善光寺近くのカフェで七味たちに囲まれながらnoteを綴っています。本当は本当は、別の対談記事をまとめたかったのですが、どうしてもどうしても感想を伝えたくなっちゃって、綴っちゃいました。。。衝動でしかnoteを描けないかもしれません。。。


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