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なんでもKONMARIしなくていい

片づけメソッドのこんまりさん、ネットフリックスでも大人気

アメリカではKonmariが動詞になった。

私は現在、アメリカから4か月も日本に帰省中

うち、今ちょうど1か月が過ぎようとしているところ。

昔暮らした場所に今いることがなんとも不思議で

興奮していた気持ちがやっと落ち着き始めている。


昔の本棚やクローゼット、私が置いていったモノたちをごそごそと漁っていると、「うっわー!懐かしい!!!!」の瞬間が沢山ある。

これを着て、あの男とデートに行ったな

この本を読んで、あんな気持ちになったな

これを聞いていた時は、あんな時代だったな

となんともセンチメンタルな気分になる。

でもどれもこれも、改めて思い出すようなことではなく

思い出の品というキューがあったからこそ感じる気持ち。

それは例えば映画の半券だとか、リボンの切れ端だとか、空き缶だとか、道でもらったティッシュだとかそういう持ち物とも言えないがらくた、そこらにぽいとほったらかしにしていたものにこそ強く宿っている力のような気がしている。

そういう、ちょっとポケットに突っ込んでいてぽいっと出しておいたようなものを見た時のなんとも言えない気持ち。


大人になってから悔やんでいるのは、昔遊んでいたおもちゃをどんどん捨ててしまったことだ。

もちろんおもちゃはずっと使うわけではないから取っておいても、、、ね。でも、小さな時の断片的にしか覚えていない幼い日々の記憶をたどるために、あの頃のおもちゃがあれば、、、どうして私はすべて捨ててしまったんだろう、と悔やむ日は少なくない。


事実、親が取っておいてくれた、幼き日に存在したものたちは「うわー!懐かしい!」という気持ちや、小さな頃を思い出して少し切なくなったり、懐かしんだりするキューになっている。

断捨離、シンプルライフ、ミニマリスト

ときめかないものは手元に置かない

共感するし素敵だなと思うけれども

ごちゃごちゃした小物たちにも記憶をたどるお手伝いができることも

リスペクトしたいと思っている。


今は使わない、ときめかない、と思っても、のちに見返すとなんとも言えない気持ちになったりすることを、一度手にしたものを後で振り返る楽しさがあるということもリスペクトしたい。

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