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『ピノキオ』に泣けてしまった…

映画の『ピノキオ』を観ました。2015年の実写版。泣けました…。

なぜ今ピノキオか? というと、最近、立て続けに、ピノキオの物語の土台は聖書、というお話を聞いたから。しかも、私がとっても親和性を感じる(平たく言うと自分に近いというか、いつも自分に示されているというか、悔い改めを促される)「ヨナ書」と「放蕩息子」の二つが合わさっていると聞いたから。

ディズニーの、誰でも見たことのあるあの可愛いアニメのピノキオはなんと1940年の制作! でも吹き替え版しか見当たらなかったので2015年の実写版を観ました(結局、英語じゃなかったので聞き取りの練習にはならず!)。

舞台はイタリアの田舎ですよね? 映画の中の風景が美しくて子供たちも可愛くて、レトロデザインの衣装やレンガ造りの建物やなにかも素敵で、それだけでも私には見る価値あったと思えますが、もちろん、ストーリーが良かった…。聖書を知っている人には、「ああ、まさに…」って感じではないでしょうか?

聖書とダブルところをランダムにあげてみると:
・人類最初の人アダムを造られた創造主の神様は「天にいる父」ですが、ゼベットじいさんも一人でピノキオを作って父になりました。
・聖書の放蕩息子は裕福な父に生前贈与をねだり、その貴重な父の財産を持って家を出て放蕩の限りを尽くし一文無しになってしまいます。ピノキオは、貧しくて着の身着のままのゼベットじいさんがたった一枚の上着を売って、学校にいくための教科書を買ってくれたのに、それを売って人形芝居を観てしまいます。
・創造主の神様は、人間の罪を贖うためにひとり子のイエス様を地上に遣わし十字架にかけられました。ゼベットじいさんは、いなくなったピノキオを探すために、奥さんの形見で唯一の財産であるペンダントさえも差し出してボートのレンタル料にしてしまいます(ペンダントよりもピノキオが大事と語る場面がありますが)。
…これって、深いなって思うの。親にとって、自分よりも大切なものがあるって感じている子供って、それで傷ついている子供って多いと思うの。私も自分のこと振り返ると娘にそういう思いをさせたことが何度もあります…。可哀そうなことをしてしまいました…。だから今もその取り戻しの過程かな~。
・放蕩息子は、財産を使い果たして食べるものもなくなった時に、「父さんの家に帰って使用人として使ってもらおう、父さんの家には使用人にだって十分に食べ物があるのだから」と帰途につきます。そんなダメ息子を心配して、きっといつも息子が去って行った道を眺めて心の中で泣いていたお父さんは、その息子がとぼとぼ帰ってくる姿を遠くから見つけて大喜び駆け寄り抱きしめて、すぐに着替えをさせて大宴会を催します、いなくなったとあきらめていた子が戻ってきたから、と。「この馬鹿息子が!」とか一喝することもなく、です。
ゼペットじいさんも、探し回ってようやく再会できたピノキオを、「心配かけおって、この馬鹿息子!」と叱責することなくひたすら喜んで抱きしめます。それどころか、ピノキオの失態に短気を起こして「でくのぼう」と言ってしまった自分の非を詫びます(その一言を口にしたところは、どんなに愛があってもゼベットじいさんも人間だから、と思わされます)。この場面で、創造主の神様の「父の無償の愛」をゼペットじいさんに重ねているのが、よくわかります。
・この映画では、ココっていうコオロギが、ピノキオの傍にいて、正しい方向や選択をその都度示すのだけど、ピノキオはその賢明なアドバイスに耳をかさず、自分の思うままに行ってしまっては失敗を繰り返します。その従わない態度は、預言者ヨナが神の指示に従わずに行けと言われたニネベの街と逆方向行きの船に乗って、神の怒りの嵐を引き起こし、おさめるために自分が海に投げ込まれたそのストーリーと重なります。それでも神はヨナを助けるために魚(多分クジラ)に飲み込ませて三日三晩の後に陸に戻させたのです。この映画ではクジラに飲み込まれたゼベットじいさんを助けるためにピノキオも飲み込まれてしまい、二人一緒に吐き出されて陸に戻ることができました。

ゼペットじいさんが、生まれたてで言葉の意味もわからないピノキオに「愛」について語る短いシーンがあります。
愛犬の他に家族もいない独り暮らしだったゼベットじいさんが、突然、命が宿りしゃべり動き出した木の人形のピノキオに「パパ(映画のピノキオの発音は「パッパ~」)と呼ばれ、愛おしくて、そのピノキオの世話をするのが嬉しくてたまらない。ピノキオが元気だったら自分も嬉しくて元気でいられる、と語るシーンは自分に照らして「本当にそう!」って思いました。私も、自分はどうであれ、まずは娘が元気だったら安心していられるし、娘が元気をなくすと自分が食欲も失せちゃうから…。

昔は、木の人形だったピノキオが良心を得て人間になる、という下りはまったくファンタジーと思っていました。でも、今思うと、最初の人アダムが地の塵から造られて神が命を吹き込まれたのだから、木の人形を人間の子にすることだって創造主の神様にはできる、という信仰が、原作者のコッローディにはあったのではないかしら? なんて思ったりします。

とにかく、ピノキオがどうであろうと関係なく、ゼベットじいさんの溢れる一方的な愛に、父の神の愛が重なって、私も長らくピノキオみたいだったのに、よくもそれでも憐れんで救っていただいたなぁって思って、泣けてしまいました。

この秋には、新作のピノキオ実写版映画が封切になるらしいので、そちらもぜひ観てみたいです。

イラストは、つかはらゆきさんからお借りしました。まさかピノキオのイラストがあるとは思ってなかったので見つけた時は嬉しかった! ちょっとうつろな寂しげな表情が、自らの悪事を反省しているようにも見えて、可愛らしいです。ありがとうございました。



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