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我が家の庭の風景 part.42

三毛猫が膝の上で丸くなっている姿はいかにも日本的だ。
縁側でおばあちゃんの膝の上だったら、昔話の世界だろう。
しかしながら、現実は甘くない。

我が家の三毛のセミ猫は抱っこは嫌なくせに、膝の上で寝るのが大好きである。縁側も好きである。
しかし、人間はそんなに膝の上に猫を乗せるのが好きではない。
考えて見てほしい。身体の弱い、全身痛持ちの人間が猫を膝に乗せていたらどうなるか。
30分経たないうちに足が痺れる。
1時間もすると膝腰どころか、肘や肩まで痛い。可愛いから我慢するが、頭痛までしてきて、最後はトイレに立って強制的に下ろす羽目になる。

縁側にしたって小春日和でも冬場は寒い。冬は縁側で長時間猫が過ごすことはなくなる。
つまり猫が人間の膝の上に乗るのは、暖かい春や夏の縁側か冬の暖房の効いたリビングなのだ。
暑苦しい。早く降りてほしい。一体人の膝で何時間寝る気なのか。
全く迷惑極まりない。気持ちは幸せでも身体は不幸だ。乗って来なければ、人間から膝に乗せはしないのに。
嘘。たまに、出来心で乗せて、後悔する。

庭作業にしても同じことがいえる。
庭の見栄えが少しはよくなったり、花が咲いたり、作物が育つのは嬉しいが、身体はつらい。
家庭菜園はともかく、花など家計の足しにもならない。それでも花が植えたい。可愛いから。

何ごとも完璧主義な人だと動物を飼うのも植物を育てるのも苦痛かもしれない。愉しさと苦しさが同時にあることは生きることの真理だが、それをあえて追及することは不毛だと思うかもしれない。

庭作業がつらいなら、つらくないようにすれば良い。
猫を膝に抱くのがつらいなら、膝に乗せないか軽い猫を飼えばいい。
そういうことではないのだ。

暑い夏、寒い冬にあえて痛みを感じながら鍬をふるいたい。鍬を土に下ろした数で作物の味が変わったり、花が綺麗に咲くとかいう実感はない。
だが、なんだかつらいことをしなければならない気がするのだ。
ただ機械化したり、農薬を使いすぎたりするのがよくない気がするというのももちろんあるが、鍬なんか使うのは意味がないよと言われたら、私は明日から庭作業のやる気をなくすかもしれない。

昨年だいぶ鍬をふるったと思い、今年は大根の種を撒く前に父が適当に起こした土をやり直さなかった。
すると大根が昨年のように太く立派に育たなかった。まだしっかり育ちきっていない蕪の方が美味しい。
土のせいばかりではないかもしれない。気候や種子を撒くタイミングが合わなかったのかもしれない。

でも、私はしっかり土を耕さなかったせいだと思いたい。私が自分でやらなかったからダメだったのだ。そうだと嬉しい。
私が自分の身体に鞭打たなくても、父の鍬で大根がよく育つならそれでよいのに、肥料などいらない、場所もほぼ選ばない大根すらうまく育たなかったのはやはり土しかないと決めつけてしまう。

大して鍬使いがうまいわけでもない。非力な私の耕作などたかが知れている。
それでも大根がうまく育たなかったことで、育った時と同じくらいやる気が出た。
11月に入り、朝霧は深くなった。
出しっぱなしの鍬の木製の柄は、朝、湿り気を帯びている。
朝霧の中の庭作業など誰も鳥すらも見ていない。
誰に褒められなくてもいいのだ。そんなんじゃダメだとアドバイスされたら少し腹が立つ。
楽しくもない下手くそな耕作を私はわけの分からない使命感に駆られてやらずにはいられない。
寒い早朝だとなおいい。
つらい、きつい、身体に鞭を打つことを毎日するほど生真面目に生きていないはずだが、どうしてかやりたくなる。

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