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広島長期低迷の引き金について考える

2016年から2018年にかけてリーグ3連覇を果たすなど、今ではすっかり強豪球団となったと言っても差し支えのない広島ですが、少し時を戻すと15年連続Bクラスに低迷するなど、弱小球団の代表格と言っても良い存在でした。

弱小球団となってしまった要因としてよく挙げられるのが、1990年代に導入されたFA制度による既存戦力の流出と、逆指名制度による有力選手の獲得競争のマネーゲーム化でしょう。
FAでは、川口和久、江藤智、金本知憲、新井貴浩といった主力選手が国内他球団に移籍し、逆指名での選手獲得人数は、12球団最小の8名と有力選手を獲得できず、これらの制度で最も割を食った球団と言えます。
独立採算ということから、財政的な余裕のなさもあって、時代の流れに飲まれてしまう形となってしまいました。

しかし、私はそれだけが引き金となって長期低迷の道を辿ったわけではないと考えています。

というのも、広島と言えば叩き上げの育成というイメージがあると思いますが、その育成が1990年代以前から綻びが生じており、そのダメージが本格的に表出したのが1990年代以降ではないかと考えるからです。
FA+逆指名+既存素材の育成失敗の3つが重なって、本格的な暗黒期に突入してしまったのです。

本稿では、今まで語られていない既存素材の育成失敗について、以下にて検証していきたいと思います。

1.広島の昭和黄金期の強みとは?

まずは、広島が1975年の初優勝以降、何を強みとして黄金期を築いたのかについて、整理しておこうと思います。

上記ツイートにてNamiki_Baseballさん(@Baseball_Namiki)やsamiさん(@RCAA_PRblog)が言及されていることから、1975年~1980年代初頭までは優れた攻撃力を強みとし、その後1980年代中盤から1991年にかけては北別府学、大野豊、川口和久を中心とした高い投手力を強みとしていたようです。

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1975年から1991年までの攻撃力と守備力について、得点数と失点数それぞれのリーグ平均からの傑出度を確認してみると、上述のように前半は高い得点力をウリとしながら、後半は傑出度が1.2を記録するような高い失点抑止力で低下した得点力を補っていたことがよく分かるかと思います。

その中身をもう少し掘り下げて確認するために、1980年、1986年、1991年と優勝年をピックアップし、主要メンバーの移り変わりを見ていきます。

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1980年は山本浩二、衣笠祥雄の高い打力が目を引き、投手も先発が4枚しっかり揃い、リリーフには江夏豊が控える盤石の布陣のように見えます。

1986年になると、山本、衣笠両名が40歳近い年齢となり打撃成績は低下。その他に核となりそうな選手もおらず、攻撃力の弱体化を如実に感じさせます。
投手は大野が故障でフル稼働できていないものの、北別府、川口を中心としながら、金石昭人や長冨浩志も好成績を残し、クローザーには津田恒美が控える強力な陣容です。

1991年は攻撃力の低下がより顕著となり、最多本塁打が江藤智の11本という事実がその深刻さを物語っています。これでよく優勝できたなという打力です‥
投手は佐々岡真司という新たな大黒柱が生まれたものの、川口、北別府、大野が中核を占める布陣は変わらず、各々の成績は素晴らしいものの、この先に一抹の不安を抱かせる投手陣となっています。

まとめると、野手では、山本、衣笠を中心とした長打力を生かした得点力がウリだったものの、下の世代の突き上げがイマイチで、両雄の引退後は得点力が低下することとなりました。
その間に、投手では北別府、大野、川口という長年先発を担う人材が台頭し、川端や長冨や佐々岡ら社会人卒の新戦力も加わることで、徐々に野手と投手の傑出が逆転していく形になったという流れです。

2.投手の育成失敗が綻びの始まり

1991年までの強みの移り変わりをここまで確認していきましたが、1991年は投手力をウリにしていたのが、この後は前田智徳、江藤、野村謙二郎、金本知憲らを中心とした高い攻撃力をウリとするチームに移行していったのはよく知られていることと思います。

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傑出度を見ると、1991年を境に得点力は1.05を超えていますが、失点抑止力は1995年以外は1.05どころか1.0を超えることもなく、低迷していることがよく分かります。

そんな攻撃力の高さを持って最も優勝に近づいたのが、1996年シーズンになります。
夏場以降のけが人の続出や投手力不足で、巨人に「メークドラマ」と称される大逆転を許し、優勝をかっさらわれることとなりましたが、ここで優勝を逃してしまったことは、かつては強みだった投手力の劣化が大きな要因でした。
当事者の緒方孝市や三村監督も、投手力不足を認識していた旨の発言を残しています。

得点傑出力は1.16を記録しており、非常に高い得点力を誇っていましたが、なぜこのような高い得点力をもってしても、支えられない投手力の劣化が生じてしまったのでしょうか?
その元凶は1980年後半~1990年代初頭にかけて獲得した投手のスカウティングと育成にあります。

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1986年から逆指名導入前の1992年までのドラフト、もしくはドラフト外で広島が獲得した投手をまとめてみました。

200登板以上もしくは20勝以上の一定以上の貢献量を記録した投手は、30投手中4投手のみと寂しい結果に終わっています。
特に20名獲得した高校生では、100登板以上もしくは10勝以上と基準を落としても該当は僅か2名のみと散々です。
野手は、この時期に緒方、野村、江藤、前田、金本を獲得しているだけに、野手と投手のスカウティングと育成力の差が、如実に表れていることがよく分かる結果と言えましょう。

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同時期のセリーグ他球団の獲得した投手も同様に、200登板以上もしくは20勝以上の貢献量を記録した投手を抜粋すると、目に付くのは横浜やヤクルトの投手数の多さです。
横浜では佐々木主浩、斎藤隆、三浦大輔と98年の優勝に大きく貢献する投手を獲得し、ヤクルトは石井一久、高津臣吾といった後のメジャーリーガーを獲得しています。
両チームが1990年代に強さを見せたのも、ここのドラフトの成功が一定の影響を与えていると言えそうです。

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もう少し詳しく見るために、この時期の球団ごとの高卒/大卒/社会人の区分別獲得投手数と、育成成功率を割り出した表を確認していきましょう。
なお、ここでの育成成功及び基準クリアとは、指名球団にて200登板以上もしくは20勝以上としています。

広島は最多の高卒投手獲得率66.7%を記録していますが、育成成功率は最低の10.0%で、基準クリア投手数も4名と最低の人数となっています。
他球団と比較しても、やはり育成が上手くいっていません。

この広島と同様に、育成が上手くいっていないのが巨人と中日で、両チームともに基準クリア投手数は最低の4名と、育成に成功したとは言えない状態です。
しかし、下記表の両チームの得点と失点の傑出度を見ると、広島はリーグ平均を超えた失点を重ね続けている一方で、巨人や中日は決して失点は多くなく、むしろ強みとなっている年も多くあります
この両チームと広島の差は何だったのでしょうか?

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巨人は1981年~1985年の間槇原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄という、80年代後半から90年代前半にかけて「3本柱」と称される先発の柱を獲得できていましたし、その後も優れた資金力を生かした逆指名、FA、有力外国人選手の獲得を行うことで、この期間のドラフトの失敗を取り戻すことができる体制でした。

中日は今中慎二と山本昌の強力なダブルエースを擁していましたし、その後も逆指名や外国人選手発掘で優れた眼力を発揮し、巨人と同じようにこの時期のドラフトの失敗を埋めていきました。
加えて投手陣に弱体化が見られ始めた頃合の1997年から、ナゴヤドームという投手有利の球場に移転したのも、プラスに働いたと言えそうです。

逆に広島は、佐々岡が91年の大活躍後は大エースとはなりきれず、かと言って巨人のように、86年以前のドラフトから先発の柱クラスの投手が出現することもありませんでした。
当然逆指名やFAで有力選手に振り向いてもらえるほどの資金力はありませんでしたし、今は積極的に行っている外国人補強も、90年代は金のかからないカープアカデミー出身の投手が3人と、マイナーからミンチーを獲得しただけで、信じられないほど補強という補強がない状況でした。
90年代の広島には、巨人や中日のように過去のドラフトの失敗を埋める術はなかったわけです。

となると、必然的にスカウティングの重要度が増すわけですが、それも80年代後半から失敗続きというのは前述の通りです。
投手の育成や素材の見極めに失敗し、90年代に戦力となるべき層の投手がごそっと戦力になり切らなかったのです。
そのため、かつての3本柱が衰えた後はなすすべなく、下り坂を転がり落ちるように一挙に状況は悪化していくだけでした。
ここには「育成の広島」として、高卒投手を育成できるという過信のようなものがあったのかもしれません。

ただ逆指名導入後も、広島では山内泰幸と澤崎俊和という、投手で2名の新人王が誕生し、ドラフト4位入団の小林幹英が新人年に9勝18Sを挙げるなど、決して投手が全く出てこなかったわけではありません。
しかし、当時のチームは中間層が薄くなり駒が少なかった分、酷使されるハメとなり、せっかく獲得した有望投手を長期的な戦力にできないスパイラルにハマってしまいました。

こうして、ブラウン監督時代に整備されるまで、投手力が大きな弱みとしてチームの足を引っ張ることとなってしまいます。
加えて、時代が下っていくとともに主力野手の移籍や高齢化があり、自慢の高い得点力も低迷を迎え、15年連続Bクラスの暗黒を突き進むことになるのです。

3.まとめ

ここまでを整理すると、下記のようになります。

昭和黄金期の広島
当初は山本、衣笠の両名を中心とした高い得点力を武器にし、両名の成績低下に合わせて北別府、大野、川口を中心とした高い失点抑止力を武器とするチームに移行。
6度のリーグ優勝と3度の日本一に輝く。
その後の広島
緒方、前田、江藤、金本を中心に再び高い得点力を武器とするチームに移行するも、投手力の低さがその足を引っ張る形に。
その一原因として、1986年~1992年のドラフトで獲得した投手の育成失敗。
資金力不足からか逆指名や外国人を活用できず、野手の力が衰えていくとともに徐々に暗黒に足を突っ込んでいくこととなる。

今回は得点や失点の要素にPF補正などを行っておらず、育成成功の基準等ももう少し環境要因を除いた形で評価できるのではないかと考えるため、今後はそのあたりを進めていくとともに、過去年度のWARを算出しそちらを用いながら、より詳細な分析を進めていきたいと考えています。

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