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人はみんな違うことを心底実感してうれしかった話

人はみんな違う。人は多様なんだ。
ぼくは、うれしくて、うれしくて、仕方がなかった。初めての感覚だった。
「人はみんな違う」ということを、はじめて心底実感したのだ。
ぼく自身も、他者と違う。ぼくは、ぼくであっていいのだ。
他者もぼくとは違う。違う存在で、それぞれに可能性がある。力がある。
そんな確信だった。
ずっと自分自身を縛り付けていた、優劣で評価する思考から一歩外に出られた気がした。

みんなともっと話をしたい。もっと応援したい。その人が輝く姿をもっと見たい。

自分自身を文章で表現し、他者の表現に触れたとき、ぼくはそんな思いでいっぱいになった。

先日、山田ズーニーさんの「伝わる・揺さぶる! 文章を書く」という、言葉の表現力の基礎を身につけるワークショップに参加した。想像以上に感情を揺さぶられるワークショップだった。
古い記憶、人とのつながり、あの時の感情、今でも思い出す後悔…ペアになって、質問をしあいながら、自分に向き合い、普段は表に現れない、心の奥底の思いを見つけてく。
いつも目を背けていたものや、見過ごしていた光景や感情に、言葉をつけていく工程は、とてもパワーのいることだった。胸の底からスーッと冷気が口から出ていくような、ヒリヒリとした感覚があった。心臓の音もいつも以上に大きく鼓動した。いつもは絶対に怖くてできない行為ができたのは、山田ズーニーさんの言葉のおかげであり、一緒に参加している人たちの存在のおかげだった。
文章を書くとき、両手は汗でいっぱいだった。息も少し荒くなった。シャーペンにはぬめりがあって、文章を書く用紙は汗でふやけていた。

ぼくは、書きたいと思ったことを書いた。これが、自分らしさなのかという疑うこともなく、浮かび上がった感情を書いた。時間内に書いた文章は、後から読むと、もっとこうしたらよかったと思う文章だった。
だけど、少し震えた筆跡、文章になりきっていない言葉、消しゴムで消しきれなかった文字、その生々しさが残っている文字の列は、いつも以上に自分を表しているように思えた。
うれしかった。自分にも、思っていることがあるんだ、考えていることがあったのだと、そのことそのものがうれしかった。自己を発見したような感覚だった。

そうして生まれた文章を、みんなの前で発表した。
ほかの人の書いた文章の発表も聞いた。本当にまったく違うものばかりだった。驚いた。ものすごく驚いた。同じワークショップをしているのに、同じ文章はまったくなかった。ひとりひとりの思いがそこにあった。
みんなちがう。その違いが、本当におもしろくて、輝いて見えた。
おそらく、人生で初めての経験だった。


みんな違って、みんないい。違いは大事。多様性は美しい。
そんなこと、知っている。小学校で習った。教科書でも、ニュースでもずっとやっている。
そんなこと、当たり前だ。常識だ。

でも実際のぼくは、わかったふりをしていたし、違いが大事だなんて思っていなかった。

正直言って、多様性とは真逆だった。
「周りからの評価」という一次元の座標に、自分がどこに位置するのか、他者はどこに位置しているのか、そればかり気にしていた。
人はみな、おなじラインにいる「はず」であり、そこから外れることを恐れた。
上に外れる者を妬み、下に外れる者を見て、安心した。
他者と違うことはルール違反だ。他者と違うと、座標軸から外されてしまう。それが不安で怖かった。
ぼくは、自分を守ってきた。プライドを守り、立場を守ろうとしてきた。

違いを認め合おう、多様性が大事だなんて、心から思ったこともなかったのだ。

だから、ズーニーさんのワークショップで、文章を書き、文章表現を聞き、心から驚いた。
自分の中に「軸」があってもいいし、そのメモリが小さくても「存在している」と気づいたからだった。自分は自分であると思えたからだった。優劣で他者を評価する眼鏡を、外せるのだと思えたからだった。

うれしかった。すっごくうれしかった。

***

久しぶりに、noteを書いた。何度も宣言して、続かないことが多いけど、最低月1回、最高で週1回くらいのペースで、また書き始めようと思う。

ちなみに、そんな山田ズーニーさんの本はこちら。


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