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ハーモニカと鯉のぼり

 優先席の前に立っていた。揺られながら、座っている三人を眺めていた。左の男の右腕が少し短いのに気が付いた。彼は上着で隠していたが明らかに左右の長さが違っていて、それは丁度手首から先がないように見えた。
 真ん中の席の女の前には白い杖があり、それが私の膝にぶつかっていた。よく見ると彼女の右足の靴が妙な角度になっていて、それは義足に履かせている靴だった。
 そして、右側の者はどうだろうかと顔を向けようとしたが、首を曲げることも目を向けることもできなかった。ただ赤と黒の残像が一瞬だけ垣間見えた。
 電車が大きく揺れたので、私は吊り皮を右手で強く掴もうとしたが、うまくいかなかった。見ると、右手は傘の柄のような形状になっていた。もう一度揺れて、右隣に立っていた男が崩れるように寄りかかってきた。そいつは踏ん張る左足がなかったのだ。
 私は幼い頃に駅で見かけた傷痍軍人になっていて、ハーモニカを吹いていた。二人組になって、私が片手で吹いて、左足のない男が空き缶をもっていた。二人とも汚れた服に制帽を深々と被り、立派に戦ってきたことを伝えたかった。私の眼鏡は片方穴が開いていて、湿った風がまぶたに当たっていた。
 昔の懐かしい曲が聴こえてきた。
 「いのおちぃーみじぃかしー♬」と目の前の義足の女が、高くか細い声で歌った。そうすると、右隣の腕のない男が「こいせよーおとめー♬」とつなげた。彼は若くして左足を失くしてしまったようだった。
 私はメロディーを思い出しながらハーモニカを吹いた。皆戦争の犠牲者だった。しかし、それは最近のことだったのか。もうとっくに終わってしまっていたのか。遠い昔の出来事が今起きているのか。
 左側に座る男の口笛がきこえてくると、どうしても見ることのできなかった、右側の視界が広がり、そこに座っている女が見えた。僅かな髪の間から凸凹の地肌が露出していて、火傷で真っ赤になっている若い女性だった。白く整った顔をしていた。
 彼女も私の演奏に合わせて口を動かしていた。しかし、彼女はプリズムのように様々な断片が映し出される姿となっていて、その動かす口元を追うのが大変だった。
 ハーモニカは小学校の音楽の授業で使った小さなものだった。肘をあげていたせいか、腕に巻いた白い包帯がほどけていって、それは電車の窓からたなびいていった。今日は五月五日だった。包帯は長く伸び、夕日に照らされた鯉のぼりとなって、穏やかな春の日の風景になっていった。

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