見出し画像

蛍光灯の全交換

 あまり人の最期を語りたくないが、全くの他人である彼のことを書き留めておく。

 彼はマンションの管理人さんだった。正副で荷二名いて、彼は正の方のしっかりした方ではなく、副の方の、どちらかといえば冴えない老人だった。

 私はその頃、マンションの理事会の委員になっており、一年の任期中だった。
 月次の理事会では、必要に応じて管理人さんも参加し、あれこれと話し合った。多くの議題は管理費の滞納者の扱いや、営繕関係や、駐輪駐車や騒音問題などだった。私は駐輪場を整備するにあたってのルール作りをしており、もう一人の理事とともに資料を作っていた。

 大きなマンションで、居住者も多く、チラシ配りか何かで部外者がエントランスに入ることも多かった。管理人の目が届かないこともあり、監視カメラを試しに設置して、その映像を理事会で見たりもしていた。
 丁度私の末娘が悪ガキ時代で、エントランスに設置した監視カメラに向かって挑むように映っており、笑いを誘ったりした。

 おそらく、監視カメラの増設に関する話し合いだったのだと思う。管理人さんの意見を聞く必要もあり、夜七時からの理事会に呼ばれていた。いつもは正の管理人さんが理路整然と意見を述べるのだったが、その日は用事でもあったのか副の方が参加していた。
 何か意見を求めても無駄なような佇まいをしており、監視カメラに関しても切れの悪いとんちんかんな受け答えで、増設パターンは理事の意見で決まっていった。
 メーカーの方も同席しており、製品型番の性能差や納期や費用についての資料を投影しており、その日の理事会はそんな風に終わろうとしていた。

 理事長が、本日の理事会はこれで終わりますが、他に何かありますか、と出席者に聞いたとき、副の管理人さんが、手を上げて起立し、廊下の電灯が切れている箇所がいくつもあるので、全交換したと言い始めた。
 多くの理事会メンバーは、全部までする必要はないのでは、という意見もあったが、当時はLEDではなく、新築マンションの入居開始時からの蛍光灯であり、寿命は同じようなものなので、一斉に交換したいという彼の主張だった。

 いくつかの反対意見で妥協するだろうと見込んでいたが、なぜか彼は一辺に交換したいと言い張っており、力を込めているのか僅かな白髪が何度も揺れていた。

 理事達も少し面倒になっており、彼の言い分を全否定するのも忍びない空気にもなり、理事長の、切れた蛍光灯の数を確認して管理人さんの方で判断してください、という結論で終わった。

***

 確かに、夜に帰宅するとき、マンションに近づくと、おそらく数百ある電灯の一部がチカチカしており、それが気になるのだろうなと思った。

 数日後の帰宅時には、マンションが煌々と輝いていた。全部の電灯が交換されたのだろう。点いていた蛍光灯も若干は衰えていたことが改めてわかった。数百本が一斉に新品となり、夜のマンションは新たな装いを呈していた。

 その数日後、理事長からの電話で、副の管理人さんが亡くなったとの連絡をもらった。持病とかもなかったそうで、突然とのことだった。電灯を全部交換した日の翌朝に、心臓の病で急逝したとのことだった。

 彼は自分が生きているうちに、管理人として、蛍光灯を全部取り換えたかったのだ。命と引き換えにやったのだろうか。何もしなければ亡くならなかったかもしれなかった。

 大人しい彼が、起立して、全交換について意見を曲げなかったときのことを思い出した。彼は自分の命の灯が僅かだと感じていて、それを押し進めることが、管理人としての義務を全うすることだとわかっていたに違いなかった。

 彼がこのマンションで管理人をしていたことや、最期にマンションの全電灯を交換したことは、世界中が知らないことだし、それをしてもしなくても世界は一ミリも変化しないだろうし、彼は日本の一地域の一家族の一老人として、生涯を終えただけだった。

 ただ、自分に与えられたささやかな役割を果たすために、残り時間に最善を尽くした彼の最期は立派に思えた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?